玄蕃尾城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報【城郭構造】 一方、北側では馬出の外側に扇形の曲輪が配置されている。面積的には主郭よりも大きいこの曲輪は、兵糧や武器などを保管する兵站基地として機能したと考えられる。このため曲輪面の造成は極めて雑で、平坦にはなっていない。 戦国時代後半、織豊時代の城郭の特徴として曲輪を囲い込む横堀が発達し、横堀によって山城に防衛戦が確立されるようになったが、その典型例がこの玄蕃尾城となっている。 【歴史】 この勝家と秀吉との対立が天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いに発展したわけだが、この戦いは両軍が約二ヶ月にわたって対峙するものであった。 秀吉方は惣構の堀を築き、その南側の山々に陣城を築いた。本陣である木之本宿の背後の田上山に弟の秀長を、東野山に堀秀政を、堂木山に木下一元・山路正国を、神明山に大鐘藤八郎・木村隼人正を、中之郷に小川祐忠を置き、特に田上山・東野山・堂木山・神明山には枡形や馬出を設ける発達した縄張の陣城が築かれ、これが第一次防御線となった。 一方勝家軍は余呉北方の山々に布陣し、勝家の本陣は最も北に位置する玄蕃尾城に置かれ、佐久間盛政が行市山に、前田利家・利長が別所山、後に茂山に、不破勝光が大谷山に、徳山秀現が粕谷山に、浅見対馬入道道西が池原山に、原房親が山寺山に、拝郷五左衛門・金森長近が椽谷山に布陣した。 さらに賤ヶ岳の戦いが長期戦の様相を見せると、勝家はさらに広範囲にわたる陣城の構築を開始した。 このように、賤ヶ岳の戦いは築城戦でもあった。そのなかでも玄蕃尾城は規模・縄張ともに突出しており、勝家が出陣してすぐさまこの城に布陣したことからも、賤ヶ岳の戦いの最中に築かれたものではなく、合戦前から築かれていたことを示すといえる。 【観光情報】
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