玄蕃尾城 のバックアップ(No.1)

現実の城情報 Edit

【城郭構造】
玄蕃尾城は滋賀県と福井県の県境に位置する余呉北方の山々のうち、最も北方に位置する中尾山(柳ヶ瀬山)に築かれた陣城。
主郭はほぼ方形で、土塁を巡らせ、北東隅には天守台に相当するような方形の櫓台が設けられている。ここには実際に櫓が構えられていたようで、礎石が残っている。
主郭の北・南・東の三方には虎口が設けられ、いずれも虎口の外側には土塁が巡らされた小曲輪が付属している。特に南北の小曲輪は方形に整えられた形状をしており、角馬出として構えられたたものであることもわかる。
さらに南側にはこの角馬出のさらに外側に長方形の曲輪が設けられており、重ね馬出となっている。
外側の内側の出入り口は東に、内側の馬出の出入り口は西に構えられており、直進できないように工夫されている。


一方、北側では馬出の外側に扇形の曲輪が配置されている。面積的には主郭よりも大きいこの曲輪は、兵糧や武器などを保管する兵站基地として機能したと考えられる。このため曲輪面の造成は極めて雑で、平坦にはなっていない。
虎口は東側に構えられているが、ここだけは物資を入れやすくするために幅の広い土橋が架けられた平虎口が設けられた。
しかし主郭北方の角馬出からは横矢が効く絶妙の縄張となっている。


戦国時代後半、織豊時代の城郭の特徴として曲輪を囲い込む横堀が発達し、横堀によって山城に防衛戦が確立されるようになったが、その典型例がこの玄蕃尾城となっている。
主郭の周囲には曲輪内側の切岸が高く、曲輪外側の切岸が低くなっており、その高低差が顕著な幅約10メートル、深さ6メートルの横堀が巡らされている。
この横堀と連携した土塁の構造も見事で、全ての曲輪に高土塁が設けられその威容は圧巻。
このように玄蕃尾城は巧妙な縄張と突出した規模を誇り、陣城の最高傑作とも評されている。


【歴史】
天正10年の清州会議において、領国に新城の築城を禁止することが取り決められた。しかし翌年に羽柴秀吉は山城国で山崎・八幡に城を築き、柴田勝家はこれを誓約違反であるとして秀吉と激しく対立した。この秀吉の築城に対抗して築かれたのが玄蕃尾城とされる。
清州会議で勝家は畿内への足がかりとなる長浜城を手に入れ、養子の勝豊を入城させた。しかし勝家の本拠である北ノ庄城と長浜城は離れすぎており、その間のつなぎの城としても玄蕃尾城を築いた意図があったと考えられる。


この勝家と秀吉との対立が天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いに発展したわけだが、この戦いは両軍が約二ヶ月にわたって対峙するものであった。
勝家方の先陣として2月28日に前田利家・利長が府中城?を出陣し、3月9日に勝家が北ノ庄城を出陣した。こうして勝家軍は3月上旬にはほぼ布陣が完了した。
これに対し、北伊勢で滝川一益と対峙していた秀吉は3月11日に佐和山城に入り、翌12日には長浜城に入城、17日には木之本に到着し、東野山~堂木山のラインに防御線を設けて勝家軍の南下を阻むこととした。


秀吉方は惣構の堀を築き、その南側の山々に陣城を築いた。本陣である木之本宿の背後の田上山に弟の秀長を、東野山に堀秀政を、堂木山に木下一元・山路正国を、神明山に大鐘藤八郎・木村隼人正を、中之郷に小川祐忠を置き、特に田上山・東野山・堂木山・神明山には枡形や馬出を設ける発達した縄張の陣城が築かれ、これが第一次防御線となった。
しかし、布陣当初は勝家軍から尾根筋が続く賤ヶ岳には陣城が築かれていなかった。ここから回り込まれると第一次防御線が背面から衝かれることになる。
これを阻止するため、第二次防御線として賤ヶ岳砦?に桑山重晴・羽田正親・浅野弥兵衛を、大岩山砦に中川清秀を、岩崎山砦に高山重友を置いたが、これらの砦は第一次防御線の砦と比べると小規模かつ単純な構造の陣城だった。


一方勝家軍は余呉北方の山々に布陣し、勝家の本陣は最も北に位置する玄蕃尾城に置かれ、佐久間盛政が行市山に、前田利家・利長が別所山、後に茂山に、不破勝光が大谷山に、徳山秀現が粕谷山に、浅見対馬入道道西が池原山に、原房親が山寺山に、拝郷五左衛門・金森長近が椽谷山に布陣した。
これらの陣も陣城として構えられ、行市山は単郭の曲輪に土塁を巡らせ、尾根の両側を掘り切るだけの小規模で単純な構造の陣城が構えられ、別所山は方形の曲輪の周囲に土塁が巡らされる、やはり単純な構造で築かれている。
このように勝家軍の陣城はおおむね秀吉軍の陣城と比べると小規模で、縄張もそれほど複雑には築かれていない。これは攻める側の勝家軍があくまで前線基地として構えたものに対し、秀吉軍は勝家軍の南下を阻止するために構えられた差と考えられる。


さらに賤ヶ岳の戦いが長期戦の様相を見せると、勝家はさらに広範囲にわたる陣城の構築を開始した。
丹生方面からの攻撃に備え竹ヶ鼻砦、柳ヶ瀬付近に打谷砦、雁ヶ谷に雁ヶ谷砦、椿坂に椿井砦、塩津街道には城の坂砦・城山砦・城が谷砦、集福寺には集福寺口砦などの諸砦が築かれ、塩津街道、今市以北の北国街道は完全に勝家軍によって固められた。


このように、賤ヶ岳の戦いは築城戦でもあった。そのなかでも玄蕃尾城は規模・縄張ともに突出しており、勝家が出陣してすぐさまこの城に布陣したことからも、賤ヶ岳の戦いの最中に築かれたものではなく、合戦前から築かれていたことを示すといえる。
賤ヶ岳の戦いは秀吉の勝利に終わり、玄蕃尾城は戦後廃城となった。現在の城跡はほぼ当時の姿を残している。


【観光情報】
JR北陸本線の木之本駅から湖国バスに乗り、柳ヶ瀬で降りて徒歩で一時間ほど。城跡の近くには駐車場もあり、自動車で行けるならばその方が便利。
滋賀県側から自動車で行く場合は、長く狭く暗いトンネルを抜けてすぐ右折になるので注意しよう。
また積雪シーズンにも注意が必要。3月上旬に行った際には城跡への道に雪が積もっており苦労した。一方で城跡がよく整備されていることもあり、山城ながら夏季でも散策が容易であり、6月上旬でも問題なく見て回ることができた。
土の城の傑作と言われるだけあって、土塁や空堀が織り成す光景は芸術品とすら感じられる。

所在地滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬・福井県敦賀市刀根
現存状態曲輪、空堀、土塁など
城郭構造山城

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