烏帽子形城 のバックアップの現在との差分(No.3)
現実の城情報楠木正成が拠った楠木七城の一つとされる。文献には応仁の乱の原因でもある河内守護畠山氏の家督争いで初めて登場する。 続きをクリックで表示 天正12年(1584年)、豊臣秀吉は根来寺(根来城)など紀伊国の諸勢力に対抗するため、岸和田城主の中村一氏に命じて烏帽子形城を改修させ、兵を配置した。 天正12年(1584年)、豊臣秀吉は根来寺(根来城)など紀伊国の諸勢力に対抗するため、岸和田城主の中村一氏に命じて烏帽子形城を改修させ、兵を配置した。 翌年の紀州征伐の後には城は使われなくなり、天正15年(1587年)のバテレン追放令によって烏帽子形城下のキリシタンは追放され、教会も破壊された。『1592年11月付日本準管区内教会目録』の中に、破壊された教会として収録されている。 また中村一氏による改修記録が烏帽子形城の改修に関係する最後のものであることから、現在残る遺構はこの時のものだと考えられる。 その後江戸時代になって再び使用されたが、元和3年(1617年)に廃城となった。
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