津久井城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報相模・甲斐の国境近くに位置し小田原城の重要な支城となった、後北条氏の家臣団・津久井衆の本拠地。 鎌倉時代に築井(津久井)太郎次郎義胤が築いたとの伝承があり、文献上では『妙法寺記』での大永5年(1525年)が初出。 城の周辺には「根小屋」「北根小屋」の地名が残っており、山麓に城主の居館や家臣の屋敷である根小屋を備えた根小屋式山城の代表例といえるが、一方で山上にも居住施設が設けられたことが発掘調査でわかっている。 戦国時代の津久井地域は後北条氏・武田氏勢力の境界にあたり津久井衆が支配していたが、「敵知行半所務」という言葉が表すように半分は後北条氏、半分は武田氏に属していた。 津久井城主で津久井衆筆頭の内藤氏は後北条氏に属し、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは武田氏に対峙した。 戦国時代の津久井地域は後北条氏・武田氏勢力の境界にあたり津久井衆が支配していたが、「敵知行半所務」という言葉が表すように、半分は武田氏に与する岩殿山城の小山田氏を中心とする郡内衆に属し、もう半分は津久井城主で津久井衆筆頭の内藤氏のように後北条氏に属し、その立地条件から津久井城の周辺では後北条氏と武田氏との争乱が絶えなかった。 続きをクリックで表示 北条氏綱が武蔵国に攻勢をかけていた頃、氏綱と敵対した扇谷上杉氏や山内上杉氏は甲斐の武田信虎と結び、信虎は氏綱を牽制するため度々津久井城を攻撃した。 氏綱の後を継いだ氏康は、信虎の後を継いだ晴信(信玄)と同盟を結んだため津久井城周辺での争乱は収まったが、同盟が破棄されると再び戦場となり、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでも津久井城は武田氏の軍勢と対峙している。 天正18年(1590年)の小田原征伐では徳川勢の本多忠勝や平岩親吉に攻撃され落城、その後廃城となり津久井衆は帰農したとされ、現在も津久井地域には津久井衆の名字が多く残っている。
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