水城 のバックアップ差分(No.2)

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水城(みずき)は[[大野城]]に先駆け築城された古代山城(朝鮮式山城)であり、「(前略)筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名を水城と日う」と『日本書紀』天智天皇3年(664年)に記録されている。
水城(みずき)は[[大野城]]に先駆け築城された古代山城(朝鮮式山城)であり、『日本書紀』では「(前略)筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名を水城と日う」と天智天皇3年(664年)に記録されている。
近世までは御笠川を堰き止め水を貯める堤と認識されていたが、昭和に入り、竹内栄喜が大宰府防衛の施設であることを強く主張し、そのための外濠があると推測した。
くわえて長沼賢海は東門地区の木樋の調査から貯水説を否定した。(出典:「水城の大樋の調査」『福岡縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書』7 )
上記二名の主張は1976年の水城発掘調査によって証明された。たしかに竹内氏が主張するように水城には土塁際に外濠が巡らされていた。
加えて長沼賢海は東門地区の木樋の調査から貯水説を否定した。(出典:「水城の大樋の調査」『福岡縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書』7 )
上記二名の主張は昭和51年(1976年)の水城発掘調査によって証明されることとなる。たしかに竹内氏が主張するように水城には土塁際に外濠が巡らされていたのだ。
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福岡平野が最も狭まる付近に、およそ1.2キロメートルにおよぶ長大な土塁が水城の規模である。軟弱な地盤であるがため、「敷粗朶工法(しきそだこうほう)」((発掘調査によって土中に敷粗朶と呼ばれる大量の枝葉が確認できたため、この工法を用いたと考えられる))と呼ばれる工法で土塁の基礎強化を図った。
他の古代山城とは違い平野を遮る土塁と、その前面に水を蓄えた外濠を併せ持つ巨大な城壁であること、さらには導水施設を備え、堤体構造物という面をもった特異さも窺える稀有な城である。
また、築城依頼まったく改築されなかったわけではなく、むしろ水城西門の発掘調査では、大きく分けて3期の変遷が捉えられている。
また、築城以来まったく改築されなかったわけではなく、むしろ水城西門の発掘調査では、大きく分けて3期の変遷が捉えられている。
1期では堀立柱式の門で壁面が石垣に覆われている。2期では8世紀前半の瓦葺きの礎石式、八脚門が想定され、律令制成立の整備と考えられている。
3期は8世紀後半から9世紀で、門を中心とし、石垣や土塁が改修され楼門風の建物が想定される。

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|所在地|福岡県大野城市下大利3丁目7−25|
|現存状態|土塁、門礎石、外濠ほか|
|城郭構造|古代山城(朝鮮式山城)|

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