横地城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報平安末期からの名家横地氏が15世紀半ば頃その本貫の地に築いた山城で、別名金寿(きんす)城とも言う。城跡は2004年、国の史跡に指定された。 応仁元年(1467)に始まった応仁の乱では西軍山名方に属していたため、遠江守護斯波氏と通じ、東軍方の今川氏に反抗した。そのため文明8年(1476)今川義忠は大軍をもって横地城を襲い、死闘7昼夜ののち衆寡敵せず、ついに落城した。 続きをクリックで表示 応仁元年(1467)に始まった応仁の乱では西軍山名方に属していたため、遠江守護斯波氏と通じ、東軍方の今川氏に反抗した。そのため文明8年(1476)今川義忠は大軍をもって横地城を襲い、死闘7昼夜ののち衆寡敵せず、ついに落城した。 横地城は、長さ約1.5km余と大規模な城郭で牧ノ原台地から西側の菊川水系の平野部に伸びる丘陵上および谷地形を利用して築城され、標高約100mの山頂部を曲輪とし東曲輪(東の城)、中曲輪(中の城)、西曲輪(西の城)山群から構成される連郭式山城で東曲輪が主郭となります。各曲輪を中心に、尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御をなすと共に、自然地形を利用した要塞となっている。 横地城は、長さ約1.5km余と大規模な城郭で牧ノ原台地から西側の菊川水系の平野部に伸びる丘陵上および谷地形を利用して築城され、標高約100mの山頂部を曲輪とし東曲輪(東の城)、中曲輪(中の城)、西曲輪(西の城)の3群から構成される連郭式山城で東曲輪が主郭となります。各曲輪を中心に、尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御をなすと共に、自然地形を利用した要塞となっている。 この城には珍地名で有名な「金玉落としの谷」がある。由来は城の合図で上から金の玉を落とし下で待機する城兵が玉を探し見つけるという訓練から名が付いたらしい。(金の玉ではなく木の玉からの転訛説も存在する。) 毎年春に開催される横地城跡桜まつりでは、この訓練を再現するイベントが催されている。 出典「静岡県古城めぐり 静岡新聞社」、「横地城跡」説明版、「菊川城館遺跡群、横地氏城館跡 菊川市教育文化部社会教育課」
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