横地城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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平安末期からの名家横地氏が15世紀半ば頃その本貫の地に築いた山城で、別名金寿(きんす)城とも言う。城跡は2004年、国の史跡に指定された。
横地氏の始祖横地太郎家永は、前九年の役(1051~1062)に鎮守府将軍として派遣された源頼義と義家父子が奥州へ下向、遠江国まで来ると長雨に前途を阻まれ国府がある見付(現 磐田市)に長逗留することになり、義家の側に仕えた相良氏の娘との間に生まれた長庶子であるとされる。
その後、横地氏は保元の乱に源義朝に従って戦い、源平の内乱期は頼朝とその弟義経に従い一の谷、屋島、壇ノ浦で戦い、鎌倉幕府成立後は有力御家人として鎌倉を中心に活動したことが鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に散見している。約400年間一貫して遠江国に勢力を張って来た横地氏累代にとって、この地はまさに懸命の地であった。
応仁元年(1467)に始まった応仁の乱では西軍山名方に属していたため、遠江守護斯波氏と通じ、東軍方の今川氏に反抗した。そのため文明8年(1476)今川義忠は大軍をもって横地城を襲い、死闘7昼夜ののち衆寡敵せず、ついに落城した。

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応仁元年(1467)に始まった応仁の乱では西軍山名方に属していたため、遠江守護斯波氏と通じ、東軍方の今川氏に反抗した。そのため文明8年(1476)今川義忠は大軍をもって横地城を襲い、死闘7昼夜ののち衆寡敵せず、ついに落城した。
横地城は、長さ約1.5km余と大規模な城郭で牧ノ原台地から西側の菊川水系の平野部に伸びる丘陵上および谷地形を利用して築城され、標高約100mの山頂部を曲輪とし東曲輪(東の城)、中曲輪(中の城)、西曲輪(西の城)山群から構成される連郭式山城で東曲輪が主郭となります。各曲輪を中心に、尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御をなすと共に、自然地形を利用した要塞となっている。
横地城は、長さ約1.5km余と大規模な城郭で牧ノ原台地から西側の菊川水系の平野部に伸びる丘陵上および谷地形を利用して築城され、標高約100mの山頂部を曲輪とし東曲輪(東の城)、中曲輪(中の城)、西曲輪(西の城)の3群から構成される連郭式山城で東曲輪が主郭となります。各曲輪を中心に、尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御をなすと共に、自然地形を利用した要塞となっている。
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この城には珍地名で有名な「金玉落としの谷」がある。由来は城の合図で上から金の玉を落とし下で待機する城兵が玉を探し見つけるという訓練から名が付いたらしい。(金の玉ではなく木の玉からの転訛説も存在する。)
毎年春に開催される横地城跡桜まつりでは、この訓練を再現するイベントが催されている。
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 出典「静岡県古城めぐり 静岡新聞社」、「横地城跡」説明版、「菊川城館遺跡群、横地氏城館跡 菊川市教育文化部社会教育課」

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|所在地|静岡県菊川市東横地|
|現存状態|曲輪、土塁、空堀、井戸|
|城郭構造|山城|

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