槇島城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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宇治川の中州にあたる槙島に築かれ、巨椋池によって分けられた山城北部・南部をつなぐ要衝の城で、室町幕府第15代将軍足利義昭が織田信長に対して挙兵した城として知られる。
槙島城はこの地に所領を持つ国衆・真木島氏の拠点で、応仁の乱の際に東軍についた真木嶋氏は西軍の攻撃によって度々槙島を追われている。その後は『後法興院記』によると明応8年(1499年)9月に細川政元と畠山尚順が戦った際、尚順方についていた真木嶋氏の「真木嶋館」が没落し、翌年8月には政元が「真木嶋」に入り、文亀元年(1501年)6月には政元が室町幕府第11代将軍足利義澄を「真木嶋城」に招き金春太夫の猿楽を催している。
永正元年(1504年)9月、薬師寺与一が政元に反旗を翻し淀古城に籠城した際には、政元の家臣である赤沢宗益が槙島から離脱したとあり、槙島城は細川氏が管理していたと考えられる。

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元亀4年(1573年)3月には信長との対立が決定的となった義昭が挙兵し[[二条城>公方様御構]]に立て籠もったが、信長が上京の町屋を焼き払って義昭に圧力をかけると義昭は正親町天皇の勅命を受け入れ、一時は信長と和睦した。
しかし7月になって義昭は再び挙兵し、京を出て近臣である真木嶋昭光の居城だった槙島城に入った。『信長公記』によると、義昭挙兵の報を聞いた信長は槙島城から宇治川を挟んだ対岸の「上やなぎ山」に陣を置き、槙島城攻撃を命じたという。
信長の軍勢は宇治川を渡って槙島城の「外構」を打ち破り、「本城」へ突入しようとしたところで義昭方から和睦の提案があり、義昭の子息を人質とする条件で城から退去することになったと『本願寺文書』に記されている。
その後、『上林文書』によると12月には信長が宇治の上林氏に対し「諸商人荷物陸地河上通路幷宿」の支配を「宇治・真木嶋」において申し付けたといい、真木嶋が拠点となっていたと考えられる。また信長は細川京兆家の昭元を槙島城に入れている。
本能寺の変で信長が横死した後は豊臣秀吉の家臣である一柳氏が一時入城したとされるが、秀吉による宇治川の付け替えによって槙島の地は河川から離れて急速に陸地化した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が[[木幡山伏見城]]を攻撃した際には槙島築城の話が上がっており、宇治川が離れた後も槙島は軍事的要地であったと思われるが、これを最後に槙島城に関する記述は見られなくなる。

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|所在地|京都府宇治市槇島町大幡|
|現存状態|なし|
|城郭構造|平城|

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