徳川四天王の一人で「家康に過ぎたるもの」「日本第一、古今独歩の勇士」などと称された本多忠勝の居城として知られる。 桑名の地は中世以来「十楽の津」と呼ばれ、堺・博多・大湊などと並ぶ日本屈指の港湾都市として繁栄していた。 戦国時代には伊藤氏の東城、樋口氏の西城、矢部氏の三崎城の「桑名三城」を中心に城館群が築かれ、桑名の自治を守った。 このうち永正10年(1513年)に伊藤武左衛門実房が築いた東城が桑名城の起源とされ、織田信長によって伊勢が平定されると滝川一益がこの地を支配し、本能寺の変後は豊臣秀吉によって支配者が度々変わった。
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天正19年(1591年)に近世城郭としての桑名城の基礎を築いたのが一柳可遊で、文禄4年(1595年)には氏家行広が神戸城の五重天守を解体し、三重櫓として桑名城に移築したという。 関ヶ原の戦い後は本多忠勝が大多喜城から10万石で入り、近世城郭の桑名城へと大改修が行われた。 忠勝は中世桑名城の縄張をもとに城を拡張し、近世桑名城は51基の櫓を備える大城郭となった。 城内には揖斐川の水を引き込み長大な水堀が幾重にも巡り、さらに大山田川と町屋川の流れを変えて城下町を守る外堀とした。 城の北側には東海道唯一の海路である「七里の渡し」があり、桑名城は東海道の要衝を押さえる城として重視された。
この忠勝による大改修は「慶長の町割り」と呼ばれ、忠勝の死後も桑名城の改修は続けられた。 元和3年(1617年)に入った久松松平氏は、3代・定綱の時代に再び大改修を行い、新たに曲輪を増設するなど城を拡張するとともに城下町の整備も行い、桑名藩政を確立したとされる。 その後奥平松平氏を経て再び久松松平氏が入って幕末に至り、戊辰戦争の際には会津藩主松平容保の実弟・定敬が藩主だったが、定敬が旧幕府軍に同行して不在のなか新政府軍に対し無血で開城し、その後明治6年(1873年)に廃城となった。
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