林城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報信濃国守護小笠原氏の居城。松本盆地は中世には府中と呼ばれ、小笠原氏の守護所である井川城が置かれていた。 小笠原氏が15世紀半ばに三つに分裂した際、井川館を本拠とする一族は府中小笠原氏と呼ばれ、長禄3年(1459年)に小笠原清宗が築き新たな拠点としたのが林城である。 清宗の孫にあたる長棟が小笠原氏を統一し、林城は小笠原氏の本城として信濃国守護にふさわしい規模の山城となったが、長棟の子の長時は天文19年(1550年)に武田信玄に攻められ林城は落城した。 甲斐源氏の加賀美氏の流れをくむ名族で、弓馬・礼法の流派として名高い小笠原流でも知られる小笠原氏の嫡流、信濃小笠原氏のうち府中小笠原氏が居城とした。 林城が位置する山辺谷は松本盆地を形成する河川の一つである薄川が開いた河谷で、松本平でも古くから開発されきた地域であり、古代には山家郷が置かれ中世には府中と呼ばれた。 小笠原氏は鎌倉時代に甲斐から信濃へと本拠を移し、元弘4年・建武元年(1334年)に信濃守護となった小笠原貞宗が守護所として井川館を築いた。 15世紀半ばに信濃小笠原氏が三つに分裂した際、井川館を本拠とする一族は府中小笠原氏と呼ばれ、長禄3年(1459年)に小笠原清宗が築き新たな拠点としたのが林城である。清宗の孫にあたる長棟が小笠原氏を統一し、林城は小笠原氏の本城として信濃国守護にふさわしい規模の山城となった。 続きをクリックで表示 林城が史料に見えるのは長棟の子の長時の時代、武田信玄が松本平に進出してきた頃で、『高白斎記』では天文14年(1545年)に「林近所」と「小笠原の館」が放火され、天文19年(1550年)には「イヌイの城」の落城をきっかけに「大城・深志・岡田・桐原・山家」が自落したと記されており、林城の落城後に長時は子の貞慶とともに府中から逃れ、信玄は林城を破壊し深志城を北信濃攻略の拠点とした。 貞慶は天正10年(1582年)の武田氏滅亡と本能寺の変に乗じて旧領の回復目指し、徳川家康の家臣となった。徳川氏の支援を受けた貞慶は深志城を奪還し、信濃は上杉氏や徳川氏、北条氏などが勢力争いを繰り広げるようになったため、林城をはじめとする松本平の城の多くが改修され、この時に巨大な竪堀や堀切、枡形などを設けた実戦的な縄張になったと考えられている。 その後貞慶は一時石川数正に従って徳川氏から離れるものの、のちに復帰して以降小笠原氏は徳川氏の有力な譜代大名として明治に至った。 また小笠原流は一族の赤沢経直(小笠原貞経)に伝えられ、経直の子孫もまた徳川氏に仕えて現在に至るまで代々小笠原流を継承している。 林城は林大城と林小城という2つの城からなり、単に林城と呼ぶ場合には一般的に林大城のことをいう。 林城の主郭は標高846メートルの山頂にあり、そこから山麓まで伸びる長い尾根上には連続した竪堀や堀切で防御され、小規模な曲輪が延々と築かれている。この構造は小笠原氏の山城に特徴的なものであり、本城である林城を守る支城の桐原城、山家城、埴原城にも見られる。 林城の主郭は山辺谷に突き出た標高846メートルの独立丘陵の山頂にあり、そこから北西に山麓まで伸びる長い尾根は連続した竪堀や堀切で防御され、小規模な曲輪が延々と築かれている。この構造は小笠原氏の山城に特徴的なものであり、本城である林城を守る支城の桐原城、山家城、埴原城にも見られる。 林大城とは大嵩崎の小谷を挟んで西側に林小城が築かれ、城を築くのに適しているとはいえない地形のためか、畝状竪堀や石積を設けるなど発達した縄張が見られる。 林大城の東側には橋倉谷が位置し、東の尾根には林大城の水源を守ったと伝わる水番城が築かれ、小規模ではあるが畝状竪堀や石積が設けられた。 井川城や林城を中心とする小笠原氏の関連城郭は、室町時代から戦国時代に至る領主の居城の在り方を示すとともに、信濃国の政治的・軍事的動向を知る上でも重要なものと評価され、国の史跡に指定される見込みとなっている。 これら林城を構成する3つの城を城下の集落や諸施設との関係で見ると、林大城を中心に各城が一体として機能したことがうかがえる。このような林城や井川城を中心とする小笠原氏の関連城郭は、室町時代から戦国時代に至る領主の居城の在り方を示すとともに、信濃国の政治的・軍事的動向を知る上でも重要なものと評価され、国の史跡に指定される見込みとなっている。
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