松尾山城 のバックアップの現在との差分(No.4)
現実の城情報応永年間(1394年~1428年)、富島氏によって関ヶ原盆地の西南、松尾山に築かれた。 続きをクリックで表示 三成は西軍総大将・毛利輝元の軍勢を松尾山城に布陣させようとしていたともいうが、輝元は吉川広家の背信行為により動けず、さらに松尾山城に布陣した盛正も小早川秀秋により追い払われることとなった。 秀秋は既にこのとき東軍と内通しており、備えとして布陣していた脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子(朽木元綱、赤座直保の名は一次史料では確認できない)も開戦直後に裏切り大谷吉継隊を攻撃、西軍は瞬く間に壊滅した。 秀秋は既にこのとき東軍と内通しており、歴史学者の白峰旬氏の考えでは開戦直前には大谷吉継隊の背後の小高い丘に布陣したという。 秀秋への備えとして布陣していた脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子も開戦直後に裏切り大谷隊を攻撃、西軍は瞬く間に壊滅した。この場面において、朽木元綱、赤座直保の名は一次史料では確認できず、安治も大津城にいたとの説がある。 また、奥平貞治も秀秋の目付とされていたともいうが、生駒利豊の書状により、実際には尾張衆の一人として秀秋とは全く無関係に討ち死にしたものだと考えられる。 なお有名な「問鉄砲」の逸話は、そもそも現地に足を運べば一目瞭然で、比高190メートルもある松尾山に鉄砲が届くはずもなく、また前述の通り秀秋は開戦時点で東軍と言ってもよく、家康が松尾山に鉄砲を撃ちかけたというのは史実であるとは思われない。
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