本證寺城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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鎌倉時代に慶円(きょうえん)上人によって創建されると、永禄6年~翌年にかけて起きた、徳川家康の人生における三大危機の一つとも言われる三河一向一揆では一揆衆の拠点となった城郭寺院。
戦国時代には本願寺蓮如自らの布教により上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)とともに本願寺派に転向したが、この3つの寺を総称して三河三ヶ寺と呼ぶ。
『三河物語』によれば、三河一向一揆は本證寺に侵入した無法者を西尾城主・酒井正親が捕縛したことから、家康の父・松平広忠の代に与えられた守護使不入の特権が侵害されたとして起きたとされている。
いずれにせよ、蓮如の孫にあたる本證寺第十代・空誓(くうせい)が上宮寺、勝鬘寺とともに、門徒宗に檄を飛ばし、家康側の砦を攻撃した。
これに、家康側から寝返った本多正信、蜂屋貞次、夏目吉信をはじめ、吉良義昭、荒川義広や今川氏の残党なども加わって、一時は家康の本城である[[岡崎城]]にまで攻撃の手が及んだ。
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しかし、一揆方は永禄7年(1564年)1月15日の馬頭原合戦に敗れると、元々一枚岩ではなかったこともあり、講和を結んだ。
その後、貞次、吉信は改めて家康に仕え、正信も松永久秀のもとに出奔したが帰参し、今日では徳川家の重臣として知られている。
一方で、本證寺は空誓が逃走したため廃寺となり、家康によって多くの寺院とともに破壊されたが、天正13年(1585年)には空誓も許され、寛文3年(1663年)までには再興している。
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また一般には、本證寺城に築かれ現存する堀や土塁は、この三河一向一揆の際に一揆方が築いたものであるとされている。
しかしながら、奈良大学の千田嘉博教授は、一揆後に破壊されていないことを疑問視し、家康が小牧・長久手の戦いののちに羽柴秀吉を警戒して築かせたものだと考えている。
いずれにせよ、山間部の寺院跡などではなく平地にある寺院で、戦国時代の防御施設が残っているケースとしては極めて貴重であるとされている。

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|所在地|愛知県安城市野寺町野寺26|
|現存状態|堀、土塁|
|城郭構造|寺院|

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