本能寺 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

法華宗本門流の大本山。言わずと知れた織田信長が家臣の明智光秀に討たれた事件、本能寺の変の舞台。
一般には寺として知られているが、盛本昌広氏の『本能寺の変 史実の再検証』によれば、「信長は変が起こる前に本能寺を接収して屋敷としているので、そこには僧侶は居らず寺としての機能は全く無い。よって正確には京信長屋敷の変、本能寺信長屋敷の変と言わなければならない」という。
構造としては、周囲を堀と土塁で囲まれた城郭造りで、平城の様相を呈する京でも随一の大寺院であった。平成19年(2007年)には石垣も発掘され、村井貞勝に普請を命じたとする史料が裏付けられた。
また、本能寺は度重なる火災で「ヒ(火)」を嫌い、「能」のつくりを「去」としているが、発掘された焼け瓦により本能寺の変の頃には既に漢字を改めていたことが判明した。
#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

応永22年(1415年)の創建当初は、「本応寺」という寺号だったが、創建者の日隆と対立した月明により破却されたのち、別の場所に再建されて「本能寺」と寺号を改めた。
信長は足利義昭や誠仁親王のために二条に城を構えているが([[二条城]]を参照)、自身の上洛の際には、本能寺を何度も宿所としている。
本能寺の変が起きた天正10年6月2日(1582年6月21日)にも、信長はここを宿所としており、羽柴秀吉の中国攻めの支援を命じられていた光秀に襲われ自害した。
このとき光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったという逸話はあまりにも有名だが、これは江戸時代中期以後に成立した軍記物『明智軍記』に登場する台詞である。
その後、二条新御所にて信長の嫡男・信忠も光秀に討たれたが、中国大返しにより京へ舞い戻った秀吉により光秀も山崎の戦いに敗れ、死亡した。
それは本能寺の変の11日後、天正10年6月13日(1582年7月2日)のことであったが、光秀が京で政務を行なっていた期間が三日であったことから、「三日天下」という諺が生まれたとされる。
光秀が謀反を企てた理由としては諸説あり、現在でも定説はない。なお現在の本堂は、昭和3年(1928年)に再建されたもので場所が異なる。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|京都府京都市中京区元本能寺町|
|現存状態|堀、石垣|
|城郭構造|平城|
*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)


ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS