旗返山城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]

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旗返山城(はたがえしやまじょう)は備後の国人江田氏の居城で毛利元就と陶晴賢の対立の発端となったと言われる城である。
江の川の支流美波羅川の寄り添う標高434m比高200mの急峻な山塊の山頂部に築かれた山城であり、斜面や尾根筋である北側には堀切や堅堀が入り乱れている中世山城となっている。
城主江田氏は近隣の南天山城主和智氏と同じく、備後国三谿郡を中心に勢力を広げた藤原秀郷流波多野氏の一族広沢氏の流れであるという。
承久の乱後当地に土着した広沢実村の子のうち長男の綱村が江田荘を与えられたのが江田氏の始まりとされ、旗返山城を拠点に三谿郡西部に勢力を築いた。
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戦国期に入ると備後の国人は尼子氏と大内氏の間で揺れ動くようになり、江田氏も状況によって大内氏についたり尼子氏についたりとを繰り返した。
天文9年(1540年)の[[吉田郡山城]]の攻防戦によって尼子氏の勢力が安芸・備後から後退すると江田氏は大内氏の傘下に入り天文12年(1543年)の[[月山富田城]]攻めにも従軍している。
天文21年(1551年)大寧寺の変が起こると、大内氏に属していた安芸・備後の国人には動揺が走ることとなり、尼子晴久はこれを見て備後に進出するとともに国人衆に調略を仕掛け、時の江田氏当主江田隆連はこれに応じ大内氏から離反した。
しかし離反はすぐさま発覚し、江田氏は陶晴賢に協力し尼子氏と対峙していた毛利元就の攻撃を受けることとなった。
江田隆連は尼子氏の援兵とともに旗返山城に籠城したが、尼子軍は陶氏によって派遣された援軍に遮られ、孤立した旗返山城は毛利軍に包囲され落城、隆連は山内氏を頼り後に出雲へと逃げていき、江田氏は没落した。
一連の戦の後処理において、毛利元就は大寧寺の変の際の約束事にのっとり江田氏旧領や旗返山城を受領することを主張したが、陶晴賢はこれを拒否し自身の重臣である江良房栄を城主として入れた。
これは毛利氏にとっては約束を反故にされたことに他ならず、以降毛利元就と陶晴賢の間の対立が激化していき、離反に繋がっていったとされている。
元就が陶氏に対して反旗を翻すと毛利氏勢力圏中に孤立している旗返山城は一方的に攻撃を受けることとなり落城、かわって元就の甥にあたる敷名元範が城主となったが、以降の事績は不明となっている。
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城跡は比較的よく整備されており、主郭部の石垣や北に広がる空堀などの遺構を確認することができる。
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|所在地|広島県三次市三若町|
|現存状態|石垣、堀切、井戸など|
|城郭構造|山城|

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