新納院・高城 のバックアップ差分(No.3)

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*現実の城情報 [#information]

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日向国内に存在する高城の1つで、三俣院・高城、穆佐院・高城と共に「日向三高城」と呼ばれた。
二度に渡る高城合戦の主戦場となった。
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宮崎県児湯郡木城町。
日向国中央東部に位置するこの地に、この城は存在していた。
新納院・高城。
宮崎県中央東部、北と南を谷瀬戸川(現・切原川)、高城川(現・小丸川)に挟まれた岩戸原の標高60メートルほどの台地にある山城で、北・東・南側は断崖絶壁を擁し、西側だけは平地とはなっているものの実に7つもの空掘を設けてあった。
城の構造は本丸と二の丸。
薩摩国守護大名・島津義久の弟・家久。
家久はこの城に入って大友軍の攻撃を受けたが激しく抵抗し、大友軍と島津軍の決戦によって大友軍が敗走すると、この城から出撃して大友軍に襲い掛かり、大友軍は大敗するに至った。
天正6年(1578年)のことである。
豊臣秀吉の九州征伐では山田有信が豊臣秀長軍およそ8万の包囲に持ち堪えた。
天正15年(1587年)のことである。
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|所在地|宮崎県児湯郡木城町|
|現存状態|空堀|
|現存状態|曲輪、土塁、横堀、竪堀、堀切、井戸|
|城郭構造|山城|

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//題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。
//初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、Edit番号の入力は任意でお願いします。
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