豊臣秀吉が築いた木幡山伏見城が関ヶ原の戦いで全焼した後、徳川家康によって再建された第4期にあたる伏見城。 慶長7年(1602年)、藤堂高虎を普請奉行に再建が進められ、年末には家康が伏見城に入城し、翌年に家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けている。かつて秀吉が居城としていた伏見城での将軍宣下は、家康が秀吉の後継者であることを知らしめる意図があったのだろう。 慶長10年(1605年)には朝鮮の使節を伏見城に迎えているが、これも秀吉による朝鮮出兵で悪化した関係の修復を、かつての秀吉の城で家康が行うということが重要だったと考えられる。 同年には徳川秀忠の征夷大将軍宣下も伏見城で行われ、大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると伏見城の重要性は低下し、元和5年(1619年)には廃城となることが決められ、翌年から始まった大坂城再建のために伏見城の資材が転用された。 しかし元和9年(1623年)に徳川家光の征夷大将軍宣下も伏見城で行われた。すでに解体工事は始まっていたため、『徳川実紀』に「先年破壊残りの殿閣にいささか修飾して御座となす」と記されるように、残されていた本丸御殿で行われたという。その後伏見城は完全に廃城となり、天守は二条城に、櫓などの建物は福山城や淀城など多くの城に移築された。
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徳川氏時代の伏見城は、基本的には秀吉の伏見城の縄張を踏襲していたと考えられるが、本丸とその東の名護屋丸をつなぐ虎口がふさがれていたり、本丸北西隅の塁線上にあった天守が塁線から離れて築かれるといった変更があった。 また南東部に位置する山里丸の南西から半島状に突き出した御茶屋山の先端には、大和の比蘇寺から移した三重塔が建っていたが、家康によって三井寺に移築され、現存している。 城の北側の防衛線を形成していた弾正丸や名束大蔵曲輪などの曲輪や、これらを取り囲んだ堀は『諸国古城之図』には描かれておらず、徳川氏時代に放棄されたと考えられる。これらの範囲が桃山御陵地に含まれず、御花畑山荘という曲輪跡に昭和39年(1964年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され模擬天守が建てられたことからも、徳川氏時代に伏見城の範囲から外れていたからと思われる。
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