御所ヶ谷神籠石 のバックアップの現在との差分(No.19)
現実の城情報御所ヶ谷神籠石は京都郡みやこ町勝山大久保と犀川、行橋市津積にまたがる標高247メートルの岳が辻の山梁の西にあった古代山城である。 続きをクリックで表示 他方、歴史学者の福永晋三氏曰く、『日本書紀』にある「豊前国の長峡県に到りて、行宮を興てて居します。故、其の処を号けて京と曰ふ」の京(みやこ)とはこの御所ヶ谷神籠石を指すのではないかという。 これは豊国=倭国説が前提になっているもので、忍熊王が御所ヶ谷に座していたところに神功皇后が攻め入ったのだと説いている。 同氏の説が本当ならば朝鮮式山城と比較され、築城年数を7世紀後期とされてきた神籠石の築城年代が大きく変更されることとなる。さらに、その存在意義も防衛施設ではなく都の性格もあったと考えざるを得ない。 御所ヶ谷の地名も景行天皇の行在のあったところから名づけられており、京都郡の由来自体も景行天皇に関係があるとされることから、まったくの夢想とも切り捨てられない。 現状詳しい資料が少ないためどういった城の様相であったか不明瞭ではあるものの、復元された貴重な神籠石式山城である鬼ノ城の状態とほとんど変わらない外観だと考えられる。 これは豊国=倭国説が前提になっているもので、忍熊王が御所ヶ谷に座していたところに神功皇后が攻め入った、とする説を前提にした考えであった。 同氏の説が本当ならば朝鮮式山城と比較され、築城年数を7世紀後期とされてきた神籠石の築城年代が大きく変更されることとなる。さらに、その存在意義も防衛施設のみならず都の性格もあったと考えざるを得ない。 御所ヶ谷の地名も景行天皇の行在のあったところから名づけられており、京都郡の由来自体も景行天皇に関係があるとされることから、まったくの夢想とも切り捨てられないだろうが追随する学者が少ないこともまだ事実である。 現状詳しい資料が少ないためどういった城の様相であったか不明瞭ではあるものの、復元された貴重な神籠石式山城である鬼ノ城の状態とほとんど変わらない外観だと考えていいだろう。 ただ、細かいこと指せば四国・中国地方にある神籠石式系山城と、九州にある神籠石式山城はその特徴の差異から、城の構造・形体がやや異なるとされる。
現存状態(クリックで表示) 現存状態山梁の南面と北斜面渓谷の東西両側の尾根に近い部分に、切石状の列石とその痕跡が4キロメートルにわたり残っている。 神籠石について(クリックで表示) 神籠石について日本城郭検定でも登場する築城形式の一つではあるが、そこまで詳しくない者からすればいったい何故この名前が付けられているのか謎であろう。 霊域説の論が発生した背景には少なからず『日本書紀』『続日本紀』が関係している。 神籠石式山城と朝鮮半島の山城との共通点(クリックで表示) 神籠石式山城と朝鮮半島の山城との共通点朝鮮半島の古代山城の列石の特徴と神籠石の特徴においては正直なところ大きく異なり、神籠石式山城における一段だけの列石は、現在のところ百済の時代に築城されたであろう金馬都土城にその類似点を見るのみである。 コメント |
Published by (C)DMMゲームズ
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を表示