後瀬山城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報甲斐武田氏の庶流である安芸武田氏からさらに分かれ、若狭守護を務めた若狭武田氏の居城で、若狭でも最大級の大城郭。 続きをクリックで表示 以後若狭は朝倉氏の支配下に置かれるが、天正元年(1573年)に織田信長が朝倉氏を滅ぼし、若狭は丹羽長秀に与えられた。 後瀬山城は標高168.5メートルの後瀬山山頂から北東・北西に続く尾根沿いに曲輪が連なり、山麓の施設は山上から続く施設の延長線上にあり、双方の施設の一致が見られる。 南方向に遮断施設が集中しているのも特徴的で、本丸南側の堀切と竪堀、本丸南側に位置する曲輪の二重堀切、北西方向に伸びる尾根上の曲輪群の土塁・堀切・竪堀、その先の曲輪の土塁と畝状空堀群はいずれも南側に設けられている。 また竪堀の使い分けも特徴の一つで、北西部の曲輪では南から西にかけての斜面は20本以上の小規模な竪堀からなる畝状空堀群が斜面をつぶし、曲輪の両端に設けられた堀切につながる長さ約100メートルにもなる竪堀は城域の西端を区画しており、このような顕著な竪堀の機能差による使い分けは珍しい。 そして主郭部に石垣が用いられているのは織豊系城郭の特徴を示しており、軍事的緊張を背景に従来の山城を一時的に使用した、あるいは広大な城域を縮小して利用した事例といえる。 このような城郭は多くの場合、その後に平野部に新たに城が取り立てられるが、後瀬山城は山麓が中世以来町場として機能し、また小浜湊を有していたことから織豊期においても存続していた。
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