庭瀬城は、備中国の三村元親が、備前国の宇喜多氏の侵攻に備えて築いたと伝えられている。 天正10年(1582年)の 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際、庭瀬城は毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、城主の井上有景が800余人を率いて守備していた。 この城は位置的に孤立した場所にあったため、毛利氏は、吉川元春や小早川隆景に早々に撤退するように下命していたが、有景はその命令に背き、秀吉軍との間で激戦が交わされた。
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結果、有景の軍勢は秀吉軍に敗れ、この地は宇喜多氏の領有となる。 当時の庭瀬城の縄割りは、現在の撫川城まであったと伝えられ、かなりの規模であったと言える。 備中境目七城とは、備中高松城を要とした松島城?、庭瀬城、日幡城?、加茂城?、冠山城?、宮路山城?の七城であり、秀吉軍侵攻に対する防衛線となった。
慶長6年(1602年)、宇喜多氏の重臣であった戸川達安が入城し、庭瀬藩を立藩した。 庭瀬城は廃城となり、同地の二の丸に藩庁が設置されて庭瀬陣屋となり、陣屋と鴨方往来周辺には陣屋町が造成された。
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