左沢楯山城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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名門大江氏の流れをくむ左沢氏の居城で、最上川沿いに位置する水陸交通を押さえる要衝の城。
大江氏は源頼朝の重臣である広元が奥州藤原氏討伐の功で寒河江庄と長井庄の地頭職を得、子の親広が承久の乱で上皇方について敗れた後に寒河江に逃れたという。
「左沢」の由来は大江氏の領主が長岡山に登って西を見た時、左手に見える山谷を指して「あて(あちら)の沢」と呼んだからとも、山岳信仰の地である日光山で礼拝した時に左に見える沢を「あてらの沢」と呼んだからともいう。
寒河江に土着した大江氏(寒河江氏)は南北朝時代の時茂の代に次男の元時を左沢に派遣し、左沢楯山城は元時によって築かれたとされる。
元時は応安元年・正平23年(1368年)の漆川の戦いで最上氏に敗れ一族63人が自刃したが、子孫は左沢の地に定着して勢力を伸ばし、やがて寒河江氏に並ぶ国人領主となっていった。

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天正12年(1584年)、最上義光が寒河江領に侵攻すると左沢氏は寒河江氏とともに滅ぼされ、義光は家臣の長尾氏を左沢楯山城に入れた。『最上義光分限帳』には「左沢 一、高弐千三百石 長尾右衛門」とあり、『最上家中分限帳』にも「一、弐千三百石 左沢城 長尾右衛門」とある。
以降の左沢楯山城は最上氏の境目の城として位置づけられ、名木沢城、清水城、[[砂越城]]などとともに最上川水運を押さえる城として機能した。
元和8年(1622年)に最上騒動によって最上氏が改易されると、酒井忠次が庄内藩を立藩し、その弟の直次が1万2000石を分け与えられて庄内藩の支藩である左沢藩を立藩した。
直次は左沢楯山城の南西に新しく小漆川城を築いて居城を移したため、左沢楯山城は廃城となった。
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左沢楯山城は最上川が村山盆地に向かって流路を大きく東に転換する地点、標高222メートルの楯山に築かれた大規模な山城で、南は最上川・前田川、東と北は桧沢で区切られ、西は天神越道・弁財天越道に通じる堀切で区画されている。
最上川の河岸と町場、山麓に設けられた居館と山城とが一体になっており、また寒河江慈恩寺方面の北道、月布川流域方面の西道、朝日町玉井方面の南道とが合流する地点でもあり、水陸交通の要衝だった。
主郭は山頂の八幡座地区で、最高所の八幡座には小規模な建物跡しか確認できないが、二段下った「ゴホンマル」と呼ばれる曲輪では掘立柱建物跡があり、主殿があったと考えられる。
八幡座から東に尾根伝いに下っていくと城内最大規模の曲輪である寺屋敷があり、掘立柱建物跡や池を伴う庭園の遺構も確認され、迎賓施設と考えられる巨海院があったと伝わる。
これらの曲輪が主要部であり、そこから蛇沢を挟んで八幡平・鉄砲場・千畳敷の曲輪があり、大規模な堀切があることから主要部を防御する役割を担っていたと考えられる。
全体の縄張としては土塁が少なく腰曲輪が連続する構造で、城の真ん中を道が通るというのが特徴となっている。
また最上川水運を押さえる城らしく、最上川に向いた千畳敷の斜面東側には竪土塁・竪堀が4本、八幡平の南斜面にも数本の竪堀がある。
増築の変遷をたどることができるのも特徴であり、南北朝時代の千畳敷、室町時代の鉄砲場・八幡平、戦国時代の八幡座・寺屋敷、そして裏山と、時代が下るにしたがって築城・拡大していったと考えられる。

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|所在地||
|現存状態||
|城郭構造||
|所在地|山形県西村山郡大江町|
|現存状態|堀切、土塁など|
|城郭構造|山城|
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