岩槻城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]
【歴史】
岩槻城は従来長禄元年(1457年)に扇谷上杉氏方の城として太田道真が築城したとされてきたが、近年は文明年間(1469~1486年)に古河公方方の成田正等によって築城されたという説が有力になっている。
成田氏は永正6年(1509年)までには本拠の[[忍城]]に戻り、岩槻城は古河公方奉公衆と考えられる渋江氏が守っている。
その後、永正の乱のなかで古河公方足利政氏の最大の支援者となった扇谷上杉氏が岩槻城をその支配下に組み入れるようになった。

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扇谷上杉氏の家臣として後北条氏に最後まで対抗し、軍用犬の運用でも知られる太田資正の居城。江戸時代以前は岩付城・岩附城とも称された。
文明年間(1469~1486年)に古河公方方の成田正等、あるいは扇谷上杉方の太田道真・道灌父子によって築城されたという。
北から東にかけて荒川が流れ、西には綾瀬川、南には低湿地帯が広がる天然の要害で、築城時に沼一面に竹束を敷き詰めて土を盛ったことから「竹束城」、また低湿地から城を見ると沼に浮かんでいるように見えることから「浮城」とも呼ばれる。
北条氏綱が武蔵に勢力を拡大するようになると、大永4年(1524年)に扇谷上杉朝興の重臣・太田資頼が氏綱に内応して岩槻城を奪取し、これが岩槻太田氏の始まりとなった。

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やがて北条氏綱が武蔵へ侵攻を開始すると、岩槻城の勢力図は扇谷上杉氏方と北条氏方との間で目まぐるしく入れ替わるようになった。
大永4年(1524年)、江戸城にいた太田資高が主君である扇谷上杉朝興の留守に乗じて離反し、江戸城を氏綱に落とさせると、岩槻城でも朝興の重臣太田資頼が氏綱に内応し、渋江右衛門大夫の岩槻城を落とすこととなった。
この時が岩槻太田氏の始まりとされる。
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以後太田氏は後北条氏と扇谷上杉氏との間で揺れ動くが、太田資正は永禄3年(1560年)に上杉謙信の関東に進出してからは後北条氏と敵対するようになった。
この後北条氏との戦いのなかで生まれた逸話が「三楽の犬の入替」で、太田資正(三楽斎道誉)は軍用犬を用いて岩槻城と[[武蔵松山城]]との間で連絡を取り合い、北条軍を苦しめたと『関八州古戦録』に記されている。事実であれば、これが日本で初めて軍用犬を用いた事例となる。
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朝興は甲斐武田氏の援軍を得てすぐに岩槻城を奪回し、資頼は朝興に帰参させられるが、翌大永5年(1525年)に渋江右衛門大夫の子三郎が氏綱を支援を受け岩槻城を攻撃、資頼は江戸城に後退した。
享禄4年(1531年)、資頼は再び岩槻城を攻め渋江三郎を討って岩槻城主に復帰し、旧領の比企郡三保谷郷に加え、足立郡のほぼ全域および崎西郡南部にわたる支配領域を形成した。
この2年後に資頼は隠居し家督を嫡子の資顕に譲った。
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武蔵への北条氏の勢力拡大が著しくなると、資顕は扇谷上杉氏から離反していった。
天文15年(1546年)、山内上杉氏・古河公方・扇谷上杉氏の連合軍は河越夜戦で北条氏康に敗れ、太田氏の主家扇谷上杉氏は滅亡した。
この時、資顕の弟で扇谷上杉氏についていた太田資正は上野新田の高林に逃れた後、北条氏の里見攻めの隙を突いて松山城を奪取した。
さらに天文16年(1547年)に資顕が死去すると岩槻城を手中に収めて岩槻太田氏の家督を継承し、松山城には上田朝直を置いて北条氏に敵対した。
しかし朝直がすぐに北条氏に内応したため松山城は北条方となり、岩槻城も包囲され資正は北条氏に従属することとなった。
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永禄3年(1560年)の越後の上杉謙信の関東侵攻に伴い、資正をはじめとするかつての反北条氏勢力は上杉方につき、北条氏の勢力はいったん後退を余儀なくされた。
しかし謙信が帰国すれば再び北条氏が侵攻するという状況が繰り返され、扇谷上杉氏の重要拠点であった松山城は、岩槻太田氏と北条氏との間で激しい争奪戦が繰り広げられた。
この松山城をめぐる攻防戦のなかで生まれた逸話が「三楽の犬の入替」だった。
岩槻城主の太田資正(三楽斎道誉)は、軍用犬を初めて用いた武将とされる。
岩槻城と松山城とは三十里余り離れていたが、氏康率いる北条勢が松山城を攻撃すると必ずといっていいほど岩槻城から即座に後詰が到着し、氏康を苦しめた。
これは資正が岩槻城と松山城の両方に飼いならした犬を配置していて、敵が来襲するとすぐさま援軍を依頼する文書を犬の首に付けて放ち、連絡を取り合ったためとされる。
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しかし松山城は永禄6年(1563年)に北条方の手に落ち、さらに岩槻城周辺を北条勢力が取り囲むようになる永禄7年(1564年)、資正・景時父子が国府台合戦に参陣し里見方として北条方と戦っている隙に、資正の子資房(氏資)が北条に内応したため資正は岩槻城を追われることとなった。
北条氏に従属した資房が永禄10年(1567年)の三船山合戦で戦死すると岩槻城は北条氏の直接支配に置かれ、北条氏政の子の源五郎、ついで北条氏房が城主となった。
その後天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で浅野長吉らの攻撃を受け、岩槻城は落城する。
北条氏が滅亡すると関東には徳川家康が入り、岩槻城には家康の重臣高力清重が2万石で入城した。
江戸時代になると岩槻城は江戸城北方の守りの要として重視され、青山・阿部・板倉・戸田・藤井松平・小笠原・永井氏ら幕府要職の譜代大名の居城となり明治維新を迎えた。
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【城郭構造】
岩槻城は別名白鶴城と呼ばれ、元荒川と綾瀬川に挟まれた西北から南東へと細長く伸びる洪積台地の東縁に築かれた。
16世紀末までには台地の南北対岸にも城域を拡張している。
岩槻の地は鎌倉時代の奥大道の系譜を引く街道の荒川渡河点にあたり、水陸交通の要衝だったことから、早い時期から市場・宿が形成されていたと考えられる。
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岩槻城は15世紀後半に築城されてから何度か改修されているが、特に天正18年(1590年)の小田原征伐の直前に大きな改修が行われた。
江戸時代の絵図から、城は本丸・二の丸・三の丸などの主郭区域、その周囲を取り囲む沼の北側に位置する新正寺曲輪区域、南岸に位置する新曲輪区域という3つの区域から構成されていたことがわかる。
新曲輪と鍛冶曲輪からなる新曲輪区域は、1580年代に秀吉の関東侵攻に備え、主郭区域の南方の防備を固めるために造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など戦国期の岩槻城の遺構がよく残され、岩槻城の城門と伝わる「黒門」「裏門」が移築保存されている。
また近年の発掘調査では北条氏の築城技術の特徴でもある障子堀が見つかっている。障子堀は堀の底に畝状の障害を設けた特徴的な堀で、新曲輪で見つかった畝はその間隔が約9メートルあり、それを復元したものを現地で見ることができる。
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岩槻城の西側および南側の一帯には戦国時代から江戸時代にかけて武家屋敷と町屋、寺社他からなる城下町が形成された。
秀吉の関東侵攻に備えた岩槻城主北条氏房は、[[小田原城]]と同様に城とその城下を「大構」で取り囲んだ。
長さ約8キロメートルにもおよぶ大構は町側に土塁を築き、その外側に堀を設けたもので、城と城下は巨大な防御施設によって守られる一つの大きな空間となった。
大構はその後失われ現在はその全貌を知ることができないが、城下町に西、現在の岩槻駅北東の愛宕神社がある小高い山は、戦国時代の大構の威容を現在に伝える唯一の場所となっている。
また岩槻城の北に鎮座した久伊豆神社は、太田資正が天文19年(1550年)に岩槻城の鎮守として創建した神社で、境内には岩槻城主が雨乞祈願に使用したという「雨乞の井」がある。
神社境内はかつては岩槻城の一部で、元荒川を臨む社叢は埼玉県自然百選に選ばれている。
永禄7年(1564年)、資正が国府台合戦で里見方として後北条方と戦っている隙に、子の房資が後北条方に内応したため資正は岩槻城を追われ、北条氏康から氏の字を与えられ房資から改名した氏資が永禄10年(1567年)の三船山合戦で戦死すると、岩槻城は後北条氏の直接支配下に置かれた。
その後岩槻城には北条氏政の子の源五郎、次いで氏房が城主となって大改修が進められ、湿地帯に多数の曲輪が増設された。
後北条氏の築城技術の特徴である障子堀も設けられ、また後北条氏の本城[[小田原城]]と同じような「大構」と呼ばれる総構を築き、城と城下町は長大な土塁で囲まれた。
しかし天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐で岩槻城は落城し、後北条氏に代わって徳川家康が支配することになる。
江戸時代になると岩槻城は[[江戸城]]北方の守りの要として重視され、幕府要職の譜代大名の居城となり明治維新を迎えた。

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|所在地|埼玉県さいたま市岩槻区太田内|
|現存状態|門、曲輪、空堀、土塁など|
|城郭構造|平城|

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