岩切城 のバックアップの現在との差分(No.3)

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*現実の城情報 [#information]

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岩切城(いわきりじょう)は宮城県仙台市宮城野区(陸奥国宮城郡)にあった城。高森城や鴻ノ館とも呼ばれる。
七北田川北岸に広がる丘陵地帯の南端にあたる標高106メートルの高森山に築かれた山城で、中心部の巨大な堀切を境に東に15、西に9つの曲輪群からなる。
東の曲輪群は比較的広い曲輪で構成され、堀切や横堀はあまり見られない。東端には土塁と堀によって囲まれた馬出あるいは外枡形と考えられる遺構が残り、東側が大手だったと考えられる。
東とは土橋でつながれた西の曲輪群は、南北に細長い主郭を中心としてその周囲に多数の曲輪が配置されている。東の曲輪群とは異なり多数の堀切や竪堀、土塁などが設けられ、実戦的な構造となっている。
鎌倉初期に陸奥国留守職となった伊沢家景が[[多賀国府>多賀城]]を守る城として築いたとされ、その子家元の代からはその職からとった留守姓を名乗り、この城を本城として宮城郡北部を支配した。


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室町時代に入り周辺の国分氏などと抗争状態にあった留守氏は、15世紀に入り南から伊達氏の勢力が迫ると、その後ろ盾を得ようと接近を試みた。
結果、伊達氏から度々養子を送りこまれる(14代留守郡宗、16代留守景宗、18代留守政景)こととなり、留守氏は徐々に伊達家中に取り込まれていくこととなる。
史料で確認できる初見は南北朝時代の観応2年(1351年)で、観応の擾乱のなかで奥州管領の吉良貞家と畠山国氏が対立し、畠山方は岩切城に籠城したが、激しい攻防戦の末に岩切城は落城し国氏は自害した。
留守氏は畠山方についていた者が多く、南北朝の内乱で勢力を減退した。室町時代に入り周辺の国分氏などと抗争状態にあった留守氏は、15世紀に入り南から伊達氏の勢力が迫ると、その後ろ盾を得ようと接近を試みた。伊達氏への接近により留守氏は有力領主へと成長して「高森殿」と称されるようになり、現在見られる岩切城はこの頃に整備されたと考えられる。
しかし伊達氏に接近した結果、伊達氏から度々養子を送りこまれる(14代留守郡宗、16代留守景宗、18代留守政景)こととなり、留守氏は徐々に伊達家中に取り込まれていくこととなる。
永禄10(1567)年、留守氏17代留守顕宗の養子として伊達晴宗の三男政景が送り込まれると、家臣の村岡氏や余目氏がこれに反抗、蜂起した。
政景はこれを討伐すると本城を村岡氏の居城であった利府城に移し、岩切城はこの時に廃城となったとされている。
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岩切城跡は昭和57年(1982年)に国の史跡として登録されており、現在では宮城県民の森の一角にあたる高森山公園の一部になっている。
そのため、堀切等の遺構はよく残されてはいるものの、東日本大震災で一部が崩落する等の激しい損傷を受けている。
曲輪をなした段をなす削平地と堀切等の遺構がわかりやすい姿で残されているものの、東日本大震災の際に一部が崩落する等の激しい損傷を受けた。
現在では補修作業の跡こそ残っているが、震災前の姿をほぼ取り戻している。

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|所在地|仙台市宮城野区岩切|
|現存状態|曲輪、空堀、堀切|
|城郭構造|山城|
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