小金城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報千葉県松戸市の城。別名を大谷口城・開花城。国府台城のすぐ北に位置し、同様に水陸の要衝だった。 続きをクリックで表示 享徳の乱以降、高城氏は同じく千葉氏庶流の原氏の家臣となって小金を領していたが、胤吉は千葉昌胤の信任を得て直接重用されるようになった。 又は小金城の成立は二段階に分かれ、台地の突端側に小金城の西半分にあたる城が元々築かれ、それを拡張したのが高城胤吉とする説もある。 または小金城の成立は二段階に分かれ、台地の突端側に小金城の西半分にあたる城が元々築かれ、それを拡張したのが高城胤吉とする説もある。 この説によれば元となった小金城は原氏、あるいはその原氏の重臣格の高城氏によってその勢力圏の西側を抑える為に築かれたとする。 いずれにしろ、胤吉が完成を祝った天文6年の末、千葉昌胤は小弓公方足利義明から離反。原氏・高城氏もこれに従い古河公方方に転じた。 いずれにしろ、胤吉が完成を祝った天文6年(1537年)の末、千葉昌胤は小弓公方足利義明から離反。原氏・高城氏もこれに従い古河公方方に転じた。 翌年に第一次国府台合戦が起こり、高城胤吉と千葉昌胤は小金城を拠点に国府台の小弓公方と対峙・牽制して北条勢を支援し、勝利に貢献した。 その後高城氏は千葉家家中からの独立色を強めて下総と武蔵の中継地点である東葛地域を治めるようになり、小金はその主城として栄えた。 永禄年間(1560年代)には上杉謙信に備えて*1改修が加えられ、また謙信に古河御所を追われた古河公方足利義氏を一時小金城に迎えている。 永禄9年(1566年)上杉謙信が下総に侵攻。小金城も包囲され籠城するが、謙信が臼井城での大敗で撤退するまで耐え抜いた。 永禄9年(1566年)、上杉謙信が下総に侵攻。小金城も包囲され籠城するが、謙信が臼井城での大敗で撤退するまで耐え抜いた。 このころを境に高城氏は完全に北条家臣団に組み込まれて「他国衆」として分類され、小金城は北条家の常陸方面への進出拠点となった。 高城胤辰は天正壬午の乱の最中に病没し、息子の胤則が家督を継ぐ。小田原攻めの時には小金城に一部を残して小田原城に籠もった。 小金城は豊臣勢の浅野長政に攻められ開城する。この時胤則は敗北を悟り、密かに使者を小田原の小金城に送って城を浅野に明け渡させた。 徳川家康の関東移封に伴い、街道筋かつ水運の要衝だった小金城には家康の五男武田信吉が入城したが、文禄元年(1592年)に佐倉*2に移り小金城は廃城となった。
城郭構造 城郭構造JR常磐線北小金駅と流鉄流山線小金城址駅の間の丘陵一つを丸ごと城とした。入り組んだ地形を活かして郭が配置され防御力も高かった。 また周辺の向台・殿平賀・中金杉(廣徳寺)に出城(砦)があり、平賀と向台からは屋敷跡が出土した。やや離れた支城に幸田砦、前ヶ崎城がある。 コメント |
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