守谷城 のバックアップ差分(No.1)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) [[相馬中村城]]の陸奥相馬氏と同族で、相馬氏の宗家にあたる下総相馬氏の居城。 相馬氏は平将門の子孫にあたる信田師国の養子となった千葉常胤の次男・師常が、相馬郡相馬御厨を相続して相馬姓を名乗ったことに始まる。 守谷城は将門が築いたという伝承があるが正確な築城年代は不明で、室町時代には下総相馬氏が居城としたとされる。 常総台地の一部、霞ヶ浦に連なる沼地に突き出た舌状台地上に築かれた守谷城は周囲を湿地帯や谷に囲まれた天然の要害だった。 大永5年(1525年)の「足利高基書状写」に記される「相馬因幡守」は守谷城を居城とする相馬因幡守胤広とされ、また永禄4年(1561年)に上杉謙信が関東に出兵した際に記された「関東幕注文」では下総相馬氏は簗田氏とともに古河公方配下の古河衆に位置づけられている。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 古河公方足利晴氏の後継者をめぐり、簗田晴助らが擁立する足利藤氏派と北条氏康が擁立する足利義氏が対立すると、下総相馬家中も両派に分裂し、若年の当主相馬整胤に代わって藤氏派の晴助の支援を得た高井治胤が実権を握り、のちに相馬治胤として下総相馬氏の当主となった。 このため下総相馬氏は簗田氏の影響下にあったが、簗田氏の居城である[[関宿城]]が永禄8年(1565年)に北条氏政によって攻撃され、また後北条氏を討つため関東に出兵した上杉謙信が[[臼井城]]攻略に失敗し撤退すると、簗田氏は後北条氏と和睦交渉を進めた。 そのなかで下総相馬氏は後北条氏に従い、守谷城は後北条氏が擁立した足利義氏の御座所として進上し、義氏が[[古河城]]に復帰した際には守谷城を簗田氏に譲り渡すよう取り決められたが、実現はしなかった。 #br 「芹澤文書」によると後北条氏は芳春院周興などを派遣して守谷城を接収し、永禄11年(1568年)には北条氏政が普請を命じた。 守谷城は古絵図に記される第一郭の「妙見曲輪」、第五郭の「御馬家台」など5つの曲輪が主郭部となり、第一郭と第二郭が自然地形に近いものなのに対し、第三郭・第四郭・第五郭は大規模な堀が巡って高低差も大きく、折れを伴う土塁が多用され枡形虎口も設けられるなど技巧的で、後北条氏の築城技術が導入されて改修されたと考えられる。 また茨城県内では珍しい、北条氏照の[[八王子城]]で出土したものと同様の漳州窯系の染付碗・皿が出土し、守谷城の支城である菅生城でも後北条氏が改修したとされる畝堀や角馬出が見つかるなど、下総相馬氏と後北条氏の関係は深かったとみられる。 #br 北条氏照は栗橋城を下総での主要な拠点とし、再び簗田氏の関宿城を攻撃した。この頃の下総相馬氏の動きは明確でないが、すでに簗田氏の影響下から脱して後北条氏との関係を維持し、守谷城も後北条氏の支配下にあったと考えられる。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、相馬治胤は[[小田原城]]に入っており、守谷城は豊臣方の浅野長政によって落城した。 小田原征伐後に下総相馬氏は改易となり、守谷城は新たに関東に入った徳川家康の家臣・菅沼定政(土岐定政)に与えられた。 その後の下総相馬氏は一時断絶するが、相馬政胤が徳川秀忠に旗本として仕え、相馬郡に1,000石を与えられて再興を許されている。 守谷城は守谷藩の藩庁として土岐氏・堀田氏・酒井氏の居城となり、城下町は整備されたものの主郭部にはこの時代の改修が確認できず、酒井氏が去った天和元年(1681年)に廃城となった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|茨城県守谷市本町| |現存状態|土塁、堀など| |城郭構造|平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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