織田信長が家臣の森可成に命じ、近江国の浅井長政・越前国の朝倉義景への備えとして、同じ近江国の安土城よりも早く石垣を用いて宇佐山に築いた城。 元亀元年(1570年)には浅井・朝倉連合軍が進軍を始め、可成は寡兵ながらも奮戦したが、石山本願寺(石山御坊)の顕如の要請を受けた比叡山延暦寺の兵や浅井本隊に攻められ戦死した。(志賀の陣) ただし宇佐山城はその後も持ち堪え、落城はしなかった。信長が後詰めに現れ戦況が長く膠着すると、和議の条件として焼き払われたとみられるが、比叡山焼き討ちの直前まで要所として機能していた。
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その証拠として、比叡山焼き討ちの10日前に明智光秀が土豪の和田秀純に宇佐山入城を命じた書状が残っており、同時に「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と仰木(現在の大津市仰木町)の皆殺しも命じている。 このことから比叡山焼き討ちの中心人物であったと考えられる光秀がその戦功により坂本城を築くと、宇佐山城は廃城になったとみられるが、石垣の一部は現存している。
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