Backup source of 大宰府 (No. 3)
*現実の城情報 [#information]

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遠の朝廷と称される大宰府の歴史は古く、宣化天皇元年(536年)、那津に官家を修造して有事に備えた那津官家(なのつみやけ)に軍事上の起源を求める向きがある。ただ、あくまで仮定でありもちろん確定ではない。
文献上初めて姿を現すのは『日本書紀』で、推古天皇17年(609年)に大宰府の前身である筑紫大宰(つくしたいさい)が百済僧の肥後国葦北漂着を報告したとある。
なぜこの地に政庁機能・国防の一端がこうして築かれたのか。東アジアとの外交の都合上どうしても筑紫に拠点が必要となったからだ。
倭国は4世紀からすでに新羅と戦い、百済との交流をもつ。404年には高句麗軍と対戦して潰敗した。古来よりすでに出兵や交易によって海外という存在を強く認識していたことが分かる。
こうした交流の中、たとえ九州支配を盤石とするための地方行政機関が大宰府の初目的であったとしても、じょじょに外交の必要性に駆られ、施設に外交能力が付加されたことは古代の文献や遺構から容易に想像がつく。
また、新羅の海賊事件や13世紀の元寇を含めて顧みれば、東アジアの軍勢が上陸の足掛かりとして、真っ先にこの北部九州を選択するのは火を見るよりも明らかであった。国家防衛手段の確立も必須であったのだ。

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しかし当初から軍事力に優れているわけではなく、顕著な軍事強化は白村江の戦い以後で、このころはまだ簡単な施設に海上警備の兵士((のちに防人と呼ばれる警備兵))を置く程度であったと推測され、まだ地方官衙(ちほうかんが)の色が強い。
白村江の戦いの大敗の教訓により、南に[[基肄城]]、とうれぎ土塁、関屋土塁、水城周辺には3つの小水城((天神山土塁、大土居土塁、上大利土塁))を築いた。『遠の朝廷』に因ればその配置からは百済最後の王都となった泗沘都城(しひとじょう)((錦江を天然の要害とし、政庁やや下中央に錦城山城、北に扶蘇山城・青山城・北羅城、西に西羅城2つ、川を挟んだ西側奥に浮山城、東に青馬山城・東羅城、南に南羅城を抱きかかえていたようだ。その他、土塁で政庁を囲んでおり、その構造を「羅城」と呼ぶ。))に似るという。
複数の山城と土塁の壁に覆われていることから「大宰府羅城」とも呼ばれた。大宰府の背に位置する北には堅牢な山城[[大野城]]が、西の脇には[[水城]](みずき)が障壁を成している。その雰囲気にはただならぬ凄みを感じるばかりである。
敗戦をきっかけとした防衛対策とは言え、大宰府は唐・新羅との戦いを機に西海の地では右に出るものがいないほどの大規模な軍都と化した。唐と新羅が敵対したため幸いにも日本に攻めてくることはなかった。
上述では軍事上の話を推してはいるが、貿易や外交力にも優れており、貿易での成果は大宰府に限らずその官道、観世音寺や[[大宰府鴻臚館]]の遺構から出た多くの貿易出土品から窺い知れる。
特に迎賓館の機能を有していた大宰府鴻臚館と西海道随一の大寺と呼ばれた観世音寺は、貿易の陶磁器や文物とともに大陸の情報が入ってきた。最先端の世界情勢を得る手段としてその存在と力を遺憾なく発揮したであろう。
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平成28年(2016年)、福岡県筑紫野市の丘陵上で約500メートルに及ぶ大規模な7世紀の土塁が新たに発掘され、大宰府一帯を山城や土塁で囲んで区画し防衛していたとする学説が改めて注目を集めた。
土塁は古代の土木技法「版築」を用いたり尾根を切り出したりして築かれており、大宰府を守った古代の城である水城の土塁と同じく、上成土塁と下成土塁の二段構造となっていた。
今回発見された土塁は1.5メートル程度だが、もとは2メートルほどあったと推測される。余談だが、『日本書紀』には「天武天皇七年(679年)難波に羅城を築く」という記載はあるものの未だ発見には至っていない。
太宰府周辺の土塁は今後の古代日本の羅城を考えるにあたり貴重な発見と言え、当時の国防の在り方の一片を垣間見られる大きな収穫であった。くわえて、文献上でしか確認が出来ていない三野や稲積の遺構発見にも期待が高まる。
なお大宰府の呼び名については現存する古代の印影には「大宰之印」とあるが、奈良時代の文書にも「太宰府」と表記するものもあり、現在では機関名としては「大宰府」、地名や天満宮としては「太宰府」と使い分けられている。

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|所在地|福岡県|
|現存状態|土塁、礎石、門跡(堀立柱跡)|
|城郭構造|国府|
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**政庁機能を超えて [#qe2263f7]

大宰府は古代律令制における地方官衙の代表格として[[多賀城]]と並び、中央政府の権威を保つための出先機関である。国防能力を期待され何度も増築・改修された。
こうした出先機関は国衙のほか、郡衙(ぐんが)、関塞(せきそこ)、駅家(うまや)、営所などが存在する。
さらに、国衙の機関を中心に形成された政治・軍事都市を「国府」といい、多賀城ならびに大宰府は他の地方官衙よりも国府としての軍事性が突出した存在であった。
北の多賀城が蝦夷地経営を主とし、他方の大宰府は西の守り、半島との外交を任されていたことからもその特殊さが際立つ。

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**大「宰」府とは何か? [#daa96e0d]

「大」は現在の意味と大差はなく、「府」については「みやこ」と読み、人の集まるところを意味する。ただ、中間の「宰」においては見当もつかない方が多いだろう。多くて当然である。
これは''「みこともち」''と読み、元来、御言を奉じ実行する人を意味した。神道の学びではこの世に生まれ以て使命を遣わされた者すべてを意味するが、『広辞苑』では地方の行政を行う官人を指す。
大宰府に対する意味としてはもちろん後者が当てはまる。つまりは大宰府を直訳すると''「はなはだしい みこともちの みやこ」''となり、国府としての規模とその重要性を名前からも窺える。

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