城井谷城 のバックアップの現在との差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]

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城井谷城(きいだにじょう)は豊前宇都宮氏の拠点であった山城である。周囲には城井の名を持つ城がいくつかあるが、多くの場合、城井谷城は萱切城や城井郷城とも呼ばれる城を指すのが一般的である。
城井川上流の渓谷に沿った切り立った山塊を利用した有事における詰めの城と考えられており、巨岩の開口部を門とするなど、人工的な建造物は少なく、自然の地形をそのまま使っていたようである。
豊前宇都宮氏は下野宇都宮氏と同族で、1195年に豊前守護に任ぜられた宇都宮信房が当地に下向したのが始まりとされる。信房は城井川上流部に拠点を構え、その詰めの城として城井谷城を築いたとされている。
その後豊前宇都宮氏は城井と姓を改め、鎌倉期には九州における有力御家人としてその名を馳せたものの、南北朝期には衰退し城井川上流部を治める小規模な国人領主になっていった。
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室町期に入り大内氏の勢力が豊前にのびると城井氏も必然的に大内氏の影響下に入ることとなり、城井谷が大友氏との境目に近いことから、両者の間で揺れ動くこととなった。
大内氏が1557(弘治3年)年に毛利氏にとってかわられると、時の当主城井貞房は大友氏の傘下に入った(その後鎮房に改名)。
さらには大友氏が耳川の合戦の大敗によって凋落の一途を辿ると今度は島津氏に従うなど、北九州をとりまく時代の荒波を必死に乗り越えようという奮闘の様子が確認される。
貞房の父長房は所領の統治を貞房に任せる一方で、本家である下野宇都宮家中の争乱に介入するなど、本家との強い繋がりを保ち、また、親子そろって将軍足利義輝に謁見するなど、武門の名門の威光を誇示することに力を入れていたとされている。
最終的に羽柴秀吉の九州討伐が始まると、島津氏の勢力が後退したため城井氏も秀吉に従うようになり、鎮房は息子朝房を秋月城攻めに出陣させている。
最終的に[[羽柴秀吉>現実の人物情報#cee6ddf6]]の九州討伐が始まると、島津氏の勢力が後退したため城井氏も秀吉に従うようになり、鎮房は息子朝房を[[秋月城]]攻めに出陣させている。
戦後、城井氏には朝房の秋月城攻めでの戦功に対し、伊予への転封が言い渡される一方、家宝である藤原定家の小倉色紙を引き渡しを要求された。
これに対し、鎮房らは先祖伝来の所領と家宝を手放すことをよしとせずこれに反発、毛利勝永の仲裁で一旦は城井谷を離れたものの、秀吉が本領安堵を認めなかったためついに蜂起、城井谷一帯を制圧し徹底抗戦の構えを見せた。
当時、豊前は黒田氏が治めていたため、鎮圧は黒田氏に任されることとなったが、城井川上流部の渓谷地帯という攻めにくい地形な上に、地の利のある城井氏側のゲリラ戦術のために黒田氏の軍勢は手痛い敗北を喫し、事態の収拾の目処が立たない状況になった。
結局、黒田孝高まで出張ることとなり、兵站を断ち締め付けを行うことでようやく鎮房も折れ、鎮房の娘である鶴姫を人質とするという条件で降伏となった。
しかし、秀吉の命や黒田長政らの判断により、鎮房らはこれらを口実に呼び出された[[中津城]]において謀殺され、残された一族も黒田氏によって攻め滅ぼされ、城井谷城もこの際に落城、廃城となった。
しかし、秀吉の命や[[黒田長政>現実の人物情報#rff72ecc]]らの判断により、鎮房らはこれらを口実に呼び出された[[中津城]]において謀殺され、残された一族も黒田氏によって攻め滅ぼされ、城井谷城もこの際に落城、廃城となった。
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元々人工的な建造物は少なかったと見られ、城跡にはそういった痕跡は見当たらないようであるが、城の一部として使われたという自然地形が今も残されいてる。
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|所在地|福岡県築上郡築上町寒田|
|現存状態|特になし(城の一部として用いられた自然地形がいくつか残っている)|
|城郭構造|山城|
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**城井氏謀殺のその後 [#a652ce69]

黒田氏による城井氏謀殺は徹底的なものであったことが知られ、
鎮房は黒田氏によって[[中津城]]で謀殺、城井谷に残っていた父長房らは黒田氏によって攻め滅ぼされ、当時肥後国人一揆の鎮圧のために出陣していた朝房も暗殺されている。
さらには、鎮房についてきた家臣も残らず討ち死にし、人質となる予定だった鶴姫は磔にされた。
このように客観的に見れば残虐と言わざるをえないほどの仕打ちが行われたわけだが、当時は祟りや怨念というものが強く信じられていた時代であり、
長政は[[中津城]]内に城井神社を設立し、鎮房を祀ることでこれを和らげようとしており、城井神社の伝承では、後に黒田氏が移った福岡の警固神社も実際は鎮房を祀ったものであると主張がなされている。
また、江戸時代中期以降黒田氏に男子が産まれず養子相続が続き、明治維新後には藩知事を解任されるなどしたことについても、城井氏の怨念によるものという説が囁かれたと言われており、この出来事が黒田氏にとっての負の歴史であったさまがうかがえる。
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&color(White,Maroon){城井氏と艾蓬の射法(クリックで表示)};
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**城井氏と艾蓬の射法 [#a652ce69]

城井氏は鎮房らが将軍足利義輝に謁見するなど、中央とも繋がりを持っていたが、
これは城井氏には一子相伝の弓の射法「艾蓬の射法」が伝えられていたことと関係があるとされている。
事実、長房の父正房は足利義稙にこれを披露したことが記録に残されている。
この艾蓬の射法であるが、神功皇后が三韓征伐の際に用いたものが伝えられたものとされており、非常に歴史と格式あるものであった。
秀吉は朝鮮出兵に際し、これにあやかり艾蓬の射法を披露することを考えたが、それを伝える城井氏は結局のところ秀吉が原因で滅ぼされていたため最早それを知るものはなく(真似事は行われたという)、秀吉はこれについて自身の判断を悔いたと言われている。
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