吉田城 のバックアップ差分(No.1)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 東海道を押さえる要衝の城として争奪戦が繰り広げられ、三河支配の重要拠点となった城。 戦国時代の東三河では今川氏の勢力下で、牧野城や一色城を拠点とする牧野氏と田原城を本拠地とする戸田氏が争っており、永正2年(1505年)頃に一色城主の牧野古白が今橋宿に城を築いた。 当初の城名としては「牛窪記」には吉田城、「牛窪密談記」「宮嶋伝記」には今橋城、「今橋物語」には峯野城や歯雑城とあり、城名の変遷は明らかでない。 吉田城は東三河平野部のほぼ中央に位置し、海岸部と奥三河とをつなぐ大動脈である豊川の入道ヶ淵を埋め立てて築かれた。 築城当初の吉田城は簡単な土塁や堀が設けられた程度で、背後の豊川と朝倉川を天然の水堀とする後ろ堅固な城だった。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 吉田城は牧野氏と戸田氏の勢力圏の境界に位置していたため、両氏による激しい争奪戦が繰り広げられ、度々城主が代わった。 やがてこの国人領主間の争いに今川氏や松平氏が本格的に介入することとなり、享禄2年(1529年)に松平清康が、天文15年(1546年)には今川義元が攻略し、以後は今川氏による東三河支配の重要拠点となった。 永禄8年(1565年)に松平家康(のちの徳川家康)が攻略して重臣の酒井忠次を城代とし、東三河の国人衆の掌握や武田氏の侵攻への対応など、吉田城は引き続き東三河支配の重要拠点として機能した。 天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康が関東に移されると吉田城には池田照政(のちの池田輝政)が入り、この時代に近世城郭への改修が進められた。 #br 近世城郭としての吉田城は「三州吉田城図」などの絵図から、北側を豊川に面する段丘上に本丸が置かれ、東側に金柑丸が連結し、これらを二の丸・三の丸が半円形に取り囲んでいた。 豊川に面した部分は重厚な石垣が築かれ、天守の代用となった鉄櫓には野面積みの高石垣が築かれたが、石垣が見られるのはこれら一部分のみで、総石垣の城ではなかった。 また堀や土塁も大型化したものの、戦国時代のものと平行して設けられており、縄張は戦国時代のものを踏襲したと考えられる。 そして三の丸以内の堀は出入りが激しいものの、その外側の堀は直線的なことから、照政時代の吉田城は三の丸以内で整備が行われたとされる。 #br 関ヶ原の戦い後に照政は[[姫路城]]に移り、吉田城は三河吉田藩の藩庁として松平氏、水野氏、小笠原氏、牧野氏、久世氏などが入り、多くの藩主が幕閣入りを果たしたことから出世城と称される。 江戸時代には城下を東海道が通るようになり、東海道五十三次の一つ吉田宿が置かれて宿場町が発達し、東海道の重要拠点となった。 吉田城の外堀は東海道に沿って直線的に設けられていることから、外堀が築かれたのは城下の整備と同じく江戸時代になってからと考えられる。 外堀の内側には城下町は含まれないものの家臣団の屋敷地が並び、総構に近い規模だった。 三河吉田藩主は頻繁に交代し、大河内松平氏の信復が寛延2年(1749年)に入ってからようやく安定し、明治維新を迎えた。 版籍奉還後に三河吉田藩は豊橋藩と改称したのに伴い、吉田城も豊橋城と呼ばれるようになったが、やがて廃城となった。 平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|愛知県豊橋市今橋町| |現存状態|土塁、堀、石垣など| |城郭構造|半円郭式平城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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