北白川城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報京と近江をつなぐ交通の要衝に位置し、京を防衛する拠点として用いられた城。時代によって「勝軍山城」や「東山新城」とも呼ばれるが、その区分は明確でない。戦国時代の京で戦乱が起こると度々使用され、近畿地方の中世城郭では史料が多い城の一つ。 続きをクリックで表示 一方で高国を破った晴元は室町幕府第12代将軍足利義晴と連携したが、高国の養子の氏綱が河内・和泉で活動し、また晴元と義晴も不和になるなど緊張状態が続いた。そのなかで天文15年(1546年)11月に義晴は「東山白川山上」に「御城」を構えた。 天文18年(1549年)には三好長慶が江口の戦いで晴元を破って京に入り、この時室町幕府第13代将軍足利義輝は中尾城を築いて対抗しようとした。一方で北白川城も用い、『言継卿記』には天文19年(1550年)4月に「北白川城」には奉公衆30人が居住し、御殿も四棟建っていたという。これに対し長慶は義輝らを攻撃し北白川城は破却された。 天文18年(1549年)には三好長慶が江口の戦いで晴元を破って京に入り、この時室町幕府第13代将軍足利義輝は中尾城を築いて対抗しようとした。一方で北白川城も用い、『言継卿記』には天文19年(1550年)4月に「北白川城」には奉公衆30人が居住し、御殿も四棟建っていたという。これに対し長慶は義輝らを攻撃し北白川城は破却された。 天文21年(1552年)1月には長慶と義輝・晴元は一時和睦し、義輝は京に入った。しかし天文22年(1553年)に義輝は再び長慶と対立して晴元とともに近江へと逃れ、永禄元年(1558年)に京に向けて進軍すると、長慶はいち早く「勝軍地蔵之山」を陣取った。その後義輝・晴元は長慶方が放棄した北白川城に入城している。 義輝と長慶との間で妥協が成立した後、永禄4年(1561年)に河内の畠山高政と結んだ近江の六角義賢が京へと進軍し、その際に義賢は「勝軍」に入り京を制圧した。 長慶が死去すると三好政権は動揺し、この機に乗じた織田信長が永禄11年(1568年)9月に足利義昭を奉じて京へ入り、この時に「勝軍城」も義昭の山城として機能していたとされる。 北白川城は比叡山から如意ヶ嶽へと続く南北に伸びる山地から派生した西尾根の突端、比約200メートルの瓜生山(勝軍山)に立地する。 このように北白川城は複数の山城が並立するような構造で、状況に応じて使用する範囲が変わったと考えられる。戦国時代にも範囲を分けて考えようとしたことはうかがえ、「勝軍之下之山」「勝軍之上之山」「東山新城 旧武田城也」などの表現がある。
コメント |
Published by (C)DMMゲームズ
コメントはありません。 Comments/北白川城?