北京城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報北京城は、華北平原の北東端に位置する城塞都市で、明および清の首都となった。 また、城内は大きく北の内城と南の外城に分かれ、それぞれが高さ11m、幅が最大で19mの城壁で囲まれ、その城壁には各所に楼閣や甕城が設置されていた。 また、城内は大きく北の内城と南の外城に分かれ、それぞれが高さ11m、幅が最大で19mの城壁で囲まれ、その城壁には各所に楼閣や甕城*1が設置されていた。 清の時代には内城と外城とで大きく社会が異なり、内城では北京八旗と呼ばれる支配階級の人々が閉鎖的な社会を営む一方で、外城では全国各地から集まってきた人々が雑多な社会を営んでいた。 続きをクリックで表示 北京城は、元の首都であった大都を継承して造られている。 北京城としての最初の姿は、後の内城と呼ばれる部分にあたる。 その後、明代中期に入ると北からモンゴル騎兵がたびたび南下し、北京城の安全を脅かすようになった。 そのため、12代皇帝の嘉靖帝は北京城の四方に築き、北京城の防衛能力を上げることを計画した。 そのため、12代皇帝の嘉靖帝は北京城の四方に外羅城を築き、北京城の防衛能力を上げることを計画した。 しかしながら、財政難により南側しか造られる事は無く、それにより北京城は凸型の独特な形状を成すことになった。 この南側に築かれた外羅城が、後の外城と呼ばれる部分になった。 外城の完成により、内城、外城を貫くように、紫禁城と景山を結ぶライン上に全長8kmにも及ぶ一本の通りが設けられた。 この通りは北京城の中心軸をなし、これにより紫禁城が城全体の中心に位置することを際立たせ、帝都の設計理念を具現していた。 この中心軸を中心に東西対称に配置された平面景観は、北京城の最大の特徴の一つとなっている。 明が滅んだ後に新たな統治者となった清は、北京城にはほとんど手を加えず、明の時代のものをそのまま使用した。 清が滅び中華民国が成立すると、北京城は北平と名を改められ、首都の座からは降りる事となった。
参考文献(クリックで表示) 唐 暁峰(2004) 「明 ・清時代の北京城 の都市計画 と構成配置 のもつ意味」, 『東アジアの都市形態と文明史』2004-01-30, p.165-177, 国際日本文化研究センター コメント |
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