豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に、肥前の名護屋城?と対馬の府中をつなぐ中継地点として築かれた城。 『松浦家文書』によると天正19年(1591年)9月3日に秀吉が松浦鎮信に築城を命じ、日野江城主の有馬晴信・三城城の大村喜前・江川城主の五島純玄ら肥前の大名に支援させた。 勝本城は壱岐島北端の勝本浦の南側、標高78メートルの丘陵上に築かれ、辰ノ島、若宮島、名鳥島に囲まれる勝本浦は天然の良港であり、勝本城は兵站基地として活用された。 主郭は楕円形で周囲を帯曲輪が囲むという松浦氏の築城に特徴的な縄張で、出入口を中心に石垣や枡形虎口など織豊系城郭の築城技術が導入された。 特に勝本浦に面した城の北西側には、土塁の上部にのみ石垣が築かれた鉢巻石垣と呼ばれる簡素なものではあったものの、見せる城を意識した石垣が築かれ、同じく北西側の大手口には石垣で枡形虎口が形成され厳重な守りとなっていた。
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勝本城は築城開始からわずか四ヶ月で完成し、豊臣秀長の家臣・本多正武が500人の兵を率いて入城し、朝鮮出兵が終わる慶長3年(1598年)までの7年間在城し、壱岐の治安維持と兵站の任を務めた。 朝鮮出兵後、勝本城はその役割を終え、やがて廃城となった。 勝本浦は江戸時代には朝鮮通信使の宿泊地となり、通信使に対し朝鮮との関係改善の意志を示すためか、勝本城では名護屋城と同じく破城が行われた。
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