利府城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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利府城(りふじょう)は仙台平野に突き出した松島丘陵の先端部にあたる標高90mの山に築かれた山城である。
山頂の本丸を含め5つの曲輪からなっていたと考えられており、松島丘陵の先端部は仙台平野から多賀城方面へ向かう街道を見下ろす位置にあたることから[[岩切城]]などと同様の街道の押さえとなっていたと考えられる。
築城は[[岩切城]]主であった留守氏の家臣であった村岡氏とされており、元は村岡城と呼ばれていたともされている。
それ故、歴史の表舞台で出てくることはなく築城から長きにわたり動静が不明となっている。

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|所在地||
|現存状態||
|城郭構造||
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戦国期に入り留守氏は長きにわたる国分氏との対立と南から進出した伊達氏の影響を受け、14代、16代を伊達氏からの養子として迎えるなど徐々に伊達氏の傘下へと組み込まれつつあった。
この状況下、永禄10年(1567年)18代として伊達晴宗の三男を迎えるとなったときに、代々の家臣であった村岡氏や余目氏などが反発し家中が分裂する事態となった。
そして16代として政景が入ると、永禄12年(1569年)に村岡氏などは反乱を起こし政景に対峙した。
しかし、翌永禄13年(1570年)には利府城は落城、村岡氏など反乱を起こした家臣は滅亡し政景は留守氏家中の統治を確実なものとした。
戦後処理が終わると、政景は利府城を修繕ならびに改修を行い[[岩切城]]から利府城に移り新たに本城とした。
これについては理由ははっきりしていないが、堅固さを最重視した[[岩切城]]よりも利府城の方が統治という点でメリットがあった等が考えられている。
留守政景は伊達氏家臣として北の大崎・葛西氏への備えを中心に活動したが、それ故奥州仕置により所領を没収されてしまい、利府城もこの時廃城となっている。
跡地は館山公園となっており、城跡の碑などが立っており、二の丸・三の丸跡も遊具などが設置される等活用されているが、城跡としての遺構は一部の地形などにそれらしさはあるもののあまり多くない。
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|所在地|宮城県宮城郡利府町利府字館山|
|現存状態|ほぼなし|
|城郭構造|山城|
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