八代城 のバックアップ差分(No.3)

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*現実の城情報 [#information]

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肥後熊本藩の本城・[[熊本城]]の支城として一国一城令下で例外的に認められ、熊本城とともに一国二城体制をとった城。
「八代城」と呼ばれる城は歴史上3つあり、現在の八代城はその3つ目にあたる松江城となっている。
肥後は古くから北の熊本平野と南の八代平野が二大中心地となって発展し、1つ目の八代城は建武2年(1335年)に名和義高が一族の内河義真に築かせた城で、古麓城と呼ばれる。
2つ目の八代城は天正16年(1588年)に肥後半国の領主となった小西行長が、重臣の小西行重に[[宇土城]]の支城として球磨川河口の三角州に築かせた麦島城で、古麓城は廃城となった。
関ヶ原の戦い後に肥後一国の領主となった加藤清正は麦島城を熊本城の支城とし、元和元年(1615年)に一国一城令が発布されてからも所有を認められたが、元和5年(1619年)の大地震によって麦島城は倒壊し、3つ目の八代城が築かれることになる。

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当時の熊本藩主・加藤忠広は幕府に新城築城の許可を願い出、幕府は肥後でのキリスト教布教の防止や薩摩の島津氏への備えとして、麦島城に引き継いて新城を持つことを許可した。
当時の熊本藩主・加藤忠広は幕府に新城築城の許可を願い出、幕府は肥後でのキリスト教布教の防止や薩摩の島津氏への備えとして、麦島城を引き継いで新城を持つことを許可した。
忠広が加藤正方に命じて築かせた新たな八代城は、麦島城の北側にあたる球磨川北岸に築かれ、地名から松江城とも呼ばれるが、以下の記述は八代城で統一する。
八代城の縄張は麦島城のものを参考にしたとされ、築城開始から3年後の元和8年(1622年)に完成した。
本丸を中心に二の丸・三の丸・北の丸など方形の曲輪が輪郭式に配置されてこれらを水堀が囲み、本丸には「八代に過ぎたるもの」と称された四層五階の大天守がそびえていたが、寛文12年(1672年)に落雷で焼失し、その後再建はされなかった。
本丸を中心に二の丸・三の丸・北の丸など方形の曲輪が輪郭式に配置されてこれらを水堀が囲み、本丸には「八代に過ぎたるもの」と称された4層5階の大天守がそびえていたが、寛文12年(1672年)に落雷で焼失し、その後再建はされなかった。
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忠広が改易されると正方も八代城を去り、代わって細川忠利が熊本城に入ると、八代城には忠利の父である忠興が入り、北の丸を隠居所とした。
熊本藩細川氏2代当主・光尚は筆頭家老の松井興長を八代城の城代とし、この松井氏の時代に干拓事業をはじめとして城下の整備が進められ、八代城の総構はのちに開削された前川の護岸堤防も兼ねるようになった。
以後明治維新まで松井氏が城代としてこの地を支配し、八代城は明治3年(1870年)に廃城となった。
平成26年(2014年)、古麓城・麦島城・八代城は合わせて「八代城跡群」として国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。
平成26年(2014年)、古麓城・麦島城・八代城は合わせて「八代城跡群」として国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に「八代城」として選定された。

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|所在地|熊本県八代市|
|現存状態|天守台、石垣、堀など|
|城郭構造|輪郭式平城|
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