佐東銀山城 のバックアップの現在との差分(No.4)
現実の城情報佐東銀山城(さとうかなやまじょう)は山陽道と瀬戸内の水運が集積する安芸の経済の中心地であった古市や今津を見下ろす標高410メートルの武田山に築かれ、山頂の主郭と周囲の尾根に張り巡らされた50以上の曲輪が特徴的な連郭式山城である。また、枡形の原型ともいえる構造も見られる。 続きをクリックで表示 安芸武田氏は鎌倉幕府御家人として元弘の乱において幕府方であったため、建武の新政において閉塞するも、足利尊氏に同調し活躍、観応の擾乱の際には甲斐の庶流石和流武田氏を逐い甲斐守護職も得るに至り、嫡流は甲斐に戻った。 安芸に残った庶流は、間もなく安芸守護職を失い分郡守護となるも佐東銀山城を拠点に安芸西部を広く治め、若狭守護に任ぜられた若狭武田氏を分出させるなど一定の勢力を得ていたが、15世紀後半になると西の大内氏の侵攻を受けるなど衰退し始めた。 そのような情勢に、安芸武田氏は武田元繁が安芸に勢力を伸ばしつつあった尼子氏と手を結んで大内に対抗することを選ぶも、永正14年(1517年)有田城を巡る戦いで吉川・毛利勢に大敗、元繁は討ち死にしてしまった(有田中井手の戦い)。 安芸に残った庶流は、間もなく安芸守護職を失い分郡守護となるも、佐東銀山城を拠点に安芸西部を広く治め、若狭守護に任ぜられた若狭武田氏を分出させるなど一定の勢力を得ていたが、15世紀後半になると西の大内氏の侵攻を受けるなど衰退し始めた。 そのような情勢に、安芸武田氏当主武田元繁は安芸に勢力を伸ばしつつあった尼子氏と手を結び大内氏に対抗することを選んだが、永正14年(1517年)有田城を巡る戦いで吉川・毛利勢に大敗、元繁は討ち死にしてしまった(有田中井手の戦い)。 その子光和は大永4年(1524年)の大内氏の攻撃を尼子氏の支援により撃退するも家中の争乱の中天文9年(1540年)に急死、若狭武田氏からの養子である信実は家中の争いから出雲に逃亡するなど、安芸武田氏の衰退は加速度的に進んでいった。 間もなく、尼子氏が大内方に転じた毛利氏の吉田郡山城攻めを開始したため信実は佐東銀山城に戻るも、肝心の尼子氏が大内・毛利方に敗れてしまったため再度出雲に逃亡、間もなく佐東銀山城も落城し安芸武田氏は没落した。 その後は大内氏の冷泉隆豊が城代となり、毛利氏が大内・陶氏に反旗を翻すと桜尾城などとともに毛利氏が接収、毛利氏の一城として続くも広島城が完成すると重要性が薄れ、関ヶ原の合戦後毛利氏が長門・周防に移った際に廃城となった。 武田信実は通説では出雲で死去したとされていたが、現在では、その後実家である若狭武田氏に戻り幕臣として仕え、京を追放された足利義昭が毛利氏を頼った際にはこれに付き従い、そこで亡くなったという説も出ている。 城跡は現在ではハイキングコースとなっているが、遺構も含めてよく保存されており、曲輪やそれを守る堀切、石垣などが現在でも確認できる。
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