佐東銀山城 のバックアップの現在との差分(No.3)
現実の城情報佐東銀山城(さとうかなやまじょう)は山陽道と瀬戸内の水運が集積する安芸の経済の中心地であった古市や今津を見下ろす標高410メートルの武田山に築かれ、山頂の主郭と周囲の尾根に張り巡らされた50以上の曲輪が特徴的な連郭式山城である。また、枡形の原型ともいえる構造も見られる。 続きをクリックで表示 安芸武田氏は鎌倉幕府御家人として、元弘の乱においても幕府方として活動した。そのため建武の新政が始まると閉塞状態に陥り、甲斐に残った庶流石和流武田氏が宮方につき甲斐守護に任ぜられたのとは対照的な状況であった。 しかし、時の当主武田信武は足利尊氏が建武の新政に反旗を翻すとこれに同調し安芸の宮方勢力を攻撃、その後は一貫して尊氏方として活躍、観応の擾乱の際には甲斐の石和流武田氏を逐い、甲斐守護職も得るに至った。 その後、安芸武田氏は嫡流が甲斐、庶流が安芸に分かれることとなるが、安芸武田氏は観応の擾乱で守護として十分な役割を果たせなかったとして、安芸守護職を失い分郡守護の地位に甘んじることとなる。 一族からは若狭守護に任ぜられた若狭武田氏が分出するなど室町幕府において一定の地位を得ていたものの、15世紀後半になると西の大内氏の侵攻を受けるなど衰退し始めた。 そのような情勢に、武田元繁は勢力を広げ始めた尼子氏と手を結ぶことで家運を立て直しをはかり、大内義興が畿内にいる隙をついて大内方の諸城を攻撃したが、大内方の吉川・毛利氏の前に大敗、元繁も討死した(有田中井手の戦い)。 その子光和も尼子氏の支援を受けて大内氏に対抗し続けたが、家中の対立等から熊谷信直が毛利氏に奔るなど安芸武田氏は瓦解していき、その次代信実の代に尼子氏の勢力が安芸に及ばなくなるに至り、信実は出雲に逃走、安芸武田氏は没落した。 安芸武田氏は鎌倉幕府御家人として元弘の乱において幕府方であったため、建武の新政において閉塞するも、足利尊氏に同調し活躍、観応の擾乱の際には甲斐の庶流石和流武田氏を逐い甲斐守護職も得るに至り、嫡流は甲斐に戻った。 安芸に残った庶流は、間もなく安芸守護職を失い分郡守護となるも、佐東銀山城を拠点に安芸西部を広く治め、若狭守護に任ぜられた若狭武田氏を分出させるなど一定の勢力を得ていたが、15世紀後半になると西の大内氏の侵攻を受けるなど衰退し始めた。 そのような情勢に、安芸武田氏当主武田元繁は安芸に勢力を伸ばしつつあった尼子氏と手を結び大内氏に対抗することを選んだが、永正14年(1517年)有田城を巡る戦いで吉川・毛利勢に大敗、元繁は討ち死にしてしまった(有田中井手の戦い)。 その子光和は大永4年(1524年)の大内氏の攻撃を尼子氏の支援により撃退するも家中の争乱の中天文9年(1540年)に急死、若狭武田氏からの養子である信実は家中の争いから出雲に逃亡するなど、安芸武田氏の衰退は加速度的に進んでいった。 間もなく、尼子氏が大内方に転じた毛利氏の吉田郡山城攻めを開始したため信実は佐東銀山城に戻るも、肝心の尼子氏が大内・毛利方に敗れてしまったため再度出雲に逃亡、間もなく佐東銀山城も落城し安芸武田氏は没落した。 その後は大内氏の冷泉隆豊が城代となり、毛利氏が大内・陶氏に反旗を翻すと桜尾城などとともに毛利氏が接収、毛利氏の一城として続くも広島城が完成すると重要性が薄れ、関ヶ原の合戦後毛利氏が長門・周防に移った際に廃城となった。 戦国末期、毛利氏の外交担当役となっていた僧安国寺恵瓊は安芸武田氏の庶流の出であるとされている他、光和の庶子は毛利氏に仕え武田宗慶を名乗り活躍した。 宗慶の子孫は安芸に残り、その後裔という武田宗右衛門が開いた私塾が現在の呉武田学園の基盤となり、武田の名を現在に継いでいる。 武田信実は通説では出雲で死去したとされていたが、現在では、その後実家である若狭武田氏に戻り幕臣として仕え、京を追放された足利義昭が毛利氏を頼った際にはこれに付き従い、そこで亡くなったという説も出ている。 戦国末期、毛利氏の外交担当役となっていた僧安国寺恵瓊は安芸武田氏の庶流の出(信実逃走後も城に残り自害した武田信重の遺児とされる)であるとされている他、光和の庶子は毛利氏に仕え武田宗慶を名乗り活躍した。 宗慶の子孫の一部は安芸に残り(もしくは戻り)、その後裔という武田宗右衛門が開いた私塾が現在の呉武田学園の基盤となり、武田の名を現在に継いでいる。 城跡は現在ではハイキングコースとなっているが、遺構も含めてよく保存されており、曲輪やそれを守る堀切、石垣などが現在でも確認できる。
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