亥鼻城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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千葉県千葉氏の中央部、亥鼻公園のある台地上にあった城。別名下総千葉城。現在では市立郷土博物館が建ち、模造天守が建てられている
千葉県千葉氏の中央部、亥鼻公園のある台地上にあった城。別名千葉城、下総千葉城。現在では市立郷土博物館が建ち、模造天守が建てられている
下総の守護を務めた下総千葉氏累代の居城とされてきたが、近年の研究によってこれまでの通説に疑義が呈されている。
通説によれば下総千葉氏の初代・千葉常重が大治元(1126)年に拠点大椎から亥鼻に移って館を築き、千葉氏代々によって城郭化されたとする。
台地の突端の神明社(物見台があったともいう)から亥鼻公園を経て郷土博物館付近までが内郭で、三つの曲輪に分かれていた。
さらにその外側、千葉大学のキャンパスになっている場所も外郭だったとされるが、どこまでが外郭の範囲だったかは定かではない。

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千葉氏は平安末期に土着した平氏系一族で、頼朝の挙兵に助勢して以来鎌倉幕府御家人として存続し、室町幕府創建期には足利尊氏に助力した。
しかし関東で享徳の乱が起きたとき、幕府方の関東管領上杉家と古河公方・足利成氏のどちらにつくかで家中が分裂し、内紛に発展。
当主千葉胤直と息子胤宣は親上杉・幕府派だったが、これに対して重臣で庶流の原胤房が康生元年(1455年)に反乱を起こし亥鼻城を襲撃する。
亥鼻城は陥落し胤直親子は千田庄の志摩城・多古城に逃れるが、胤直の叔父・馬加((まくわり))康胤が原胤房の軍に加わり、ついに両城とも陥落した。
胤直・胤宣親子は自刃し、胤直の弟・胤賢は落城前に二人の子を連れて脱出。胤賢は小堤城に逃れたがそこも攻められ自刃する。
しかしその遺児自胤・実胤は幕府の命で派遣された美濃国[[篠脇城]]主・東常縁(千葉氏庶流)に保護され、武蔵に落ち延び[[石浜城]]を与えられる。
東常縁は馬加康胤を討ち原胤房を追放するなど内紛平定に尽力するが、古河公方の介入や美濃の自領の押領問題などで離脱を余儀なくされた。
亥鼻城は馬加康胤の子・岩橋輔胤が文明年間(1469年~1486年)に[[本佐倉城]]を築いて本拠を移し、その後廃城となったとされる。
ただし永正13年に落城したとの記録もあり、そのころまでは城として使われていたか、あるいは古城址を城砦としたかが考えられる。
現在では明確に残っている遺構は土塁のみであるが、他に曲輪間の空堀と思われる地形も残存している。

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しかし、通説にある鎌倉時代にこのような台地を利用した形で城郭を築く例は少なく、また発掘調査の結果からもこれを裏付ける証拠はない。
そもそも千葉氏居城=亥鼻城と結び付けられたのは時代が下った後、少なくとも江戸以降のことであり、同時代史料でも確認が取れていない。
現在城跡に建つ千葉市立郷土博物館ですら、亥鼻城を千葉氏累代の居城とする見解には疑義を呈している。
千葉妙見社(千葉神社)の記録『千学集抄』では館の場所を「堀内」と呼んでいることから、近年では千葉市市街地の低地部分、具体的には都川を挟んだ対岸の現在の千葉地方裁判所付近に館があったとする説が出ている。この場所には明治時代まで方形の堀と土塁が残っていたという。
この説では亥鼻城は後に城館近くの高台に築かれたとされ、築城時期は戦国初期とも言われるが、一方で室町系の「詰めの城」とも考えられる。
このような平地の守護館+背後の高地に詰めの城という組み合わせは[[躑躅ヶ崎館]]を始め、他国の守護大名にも見られるパターンである。
亥鼻城付近の発掘調査結果では生活用品の出土が少ないことも挙げられるが、戦時にのみ使う詰めの城であればそれも当然といえる。

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|所在地|千葉県千葉市亥鼻|
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|所在地|千葉県千葉市中央区亥鼻|
|現存状態|土塁、曲輪跡|
|城郭構造|平山城|

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