九戸城 のバックアップ(No.4)

現実の城情報 Edit

九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内にあった日本の城である。後に盛岡へと移るまで南部氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である。別名「宮野城」。昭和10年(1935年)に国の史跡に指定されている。


明応年間の1500年ごろ築城。三戸南部氏や八戸南部氏とともに南部氏一族である九戸氏が居城とした。正確な年は不明であるが、九戸氏が九戸城を築城し移ったのが、『系胤譜考』では7代目光政のとき、『奥南落穂集』では12代目信実の代という。また、11代目(『奥南落穂集』の代数では14代目)政実が二戸を加増されて移ったとされる説もある。
九戸氏の最後の当主である政実は、豊臣秀吉の奥州支配に最後まで抗った大名として一部で有名である。
南部宗家の跡継ぎ問題を発端とし、三戸南部の信直と九戸南部の政実が対立した。南部宗家は信直が相続し、天正18年(1590年)に信直は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣したため南部領を安堵され、名実ともに南部家当主となった。
これを不服とした政実は天正19年(1591年)に挙兵、信直が結んだ豊臣氏と対抗する形になった九戸政実は、前年の奥州仕置を不服とする諸将をも引き込んだ大乱を起こすこととなった。政実5000人の兵をもって九戸城に籠城。
同時に葛西・大崎一揆も再発し、秀吉は奥州再仕置を命じ、豊臣秀次を総大将とする大軍を送り込んだ。九戸城は6万の豊臣軍に包囲されたが、馬淵川・白鳥川・猫渕川に囲まれ一部は断崖絶壁となった九戸城は天然の要害で、容易には落ちなかった。
そこで再仕置軍は九戸氏の菩提寺である長興寺の住職に説得を依頼し、政実は家臣や婦女子の助命を条件に開城した…
はずだったがこれは豊臣方の罠であり、女子を含め九戸一族は根絶やしにされたと伝わる。
この乱は秀吉による天下統一の総仕上げとされるが、天下の豊臣軍が攻め倦んだ末に謀略、反故、撫で斬りといった史実は歴史書から抹消されたともいわれる。二の丸跡の発掘調査で、首を刎ねられて刀傷を負った、女性を含む複数の人骨が発掘されている。
世にいう九戸政実の乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。


乱の終結後、九戸氏の旧領は南部宗家の所領として与えられるとともに、九戸城は蒲生氏郷や浅野長吉らによって上方風の城郭に改築された。
改築された城は「福岡城」と名付けられ、本丸をL字型に囲む規模の大きい空堀が設けられ、直線的に掘られた堀には石垣も普請された。
この改築の際に穴太衆によって築かれた石垣は東北地方の城では最古の石垣として知られる。また虎口も洗練された構造となっており、いかにも近世初頭の様相を呈するものとなっている。
なぜ豊臣勢が乱後に九戸城の改修を行ったのかを考えると、従前の九戸城では豊臣政権の人々が納得できる城館の構造ではなかったからと考えられる。
豊臣氏に帰属した南部氏の新たな本拠としての体裁を整えていないと判断されたためか、織豊系城郭で培われた築城技術が投入されての改修が行われたことになる。
それほどまでに、戦国時代末期の南部氏の城館と織豊系城郭には差異があった。
改修前の九戸城は、本丸周辺に二の丸の他に石沢館・若狭館・松の丸など、規模の大きな空堀で隔てられた広い面積を有する曲輪が存在していた。
これは浪岡城根城のような、一つ一つの曲輪が独立して存在し、全体として曲輪が群在する、群郭式の城館といえる。
群郭式の城館は求心構造が弱く、ピラミッド型の権力構造ではなく一族の連合による領主間の横のつながりが表れた構造となっており、当時の東北地方の地域性を反映しているといえる。
これが九戸政実の乱後の改修によってL字型の空堀・石垣・虎口が普請されたことで、主従関係のはっきりした本丸と二の丸が築かれることとなった。
南部氏は慶長2年(1597年)盛岡城を普請するまで九戸城を本拠として使用した。寛永13年(1636年)に九戸城は廃城となった。
城跡は昭和10年(1935年)6月7日、国の史跡に指定され、現在は保存整備されている。ただし、三の丸跡は大部分が市街地となっており、史跡指定対象外となっている


歌曲「荒城の月」の作詞者・土井晩翠が当地にリンゴ狩りに訪れた際、自ら筆を執り記した「荒城の月」の歌碑が建立されている。

所在地岩手県二戸市福岡城ノ内
現存状態空堀、石垣、土塁など
城郭構造梯郭式平山城

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示

  • おお、九戸城も解説ができてたんだな 『天を衝く』は必読 -- 2016-11-27 (日) 00:01:52
    • 天元を突破するのですね、わかります。(尾山城を見ながら -- 2016-11-27 (日) 06:17:28
  • 「南部氏は慶長2年(1597年)に不来方城盛岡城)」で不来方城にリンクを貼るのは変だと思うので修正。ここで言う不来方城は盛岡城の旧称であって、城プロに実装されてる不来方城じゃない。 -- 2016-11-28 (月) 20:44:22
    • 盛岡城の頁にも不来方城の頁にも「不来方城→盛岡城」の経緯が書かれてました。平安時代には存在していたとされる不来方城の跡地に築かれた城で、南部利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。ーーとありますが、九戸城で語られる不来方城との具体的な違いを教えてもらえませんか?浅学ですみません。 -- 2016-11-28 (月) 20:54:06
      • 不来方城(御城で未実装の方)は一旦破却されて、その跡地に不来方城(御城で登場する城)が築城された。名前は同じだけど、同じなのは名前だけで築城時期も歴史も全く異なる。 -- 2016-11-28 (月) 20:58:31
      • さっそく有難うございます!理解できました。こう見ると城郭の歴史って複雑ですね。 -- 2016-11-28 (月) 21:01:29
      • 失礼、未実装と実装が逆だった。御城で実装されてる不来方城が先代で、後に作られた不来方城は盛岡城と同じ。 -- 2016-11-28 (月) 21:01:39
      • ↑いえ、逆です。城プロの不来方城は平安時代には建てられていたと言っているので。その元の不来方城を取り込むような形で、新たに不来方城(未実装)を築き、盛岡城に名前を改めた。 -- 木主 2016-11-28 (月) 21:03:59
      • 書き込むのが遅かった。まあ代わりに説明感謝です。 -- 木主 2016-11-28 (月) 21:04:56
      • すまんまた逆だったか -- 2016-11-28 (月) 21:05:58
    • 修正ありがとうございます!そういえばリンク先の不来方城は盛岡城とは別のものでしたね…、すっかり失念していました -- 2016-11-28 (月) 21:03:58
    • 不来方城(実装)→破却→不来方城(未実装)→盛岡城
      こんな感じでしょか? -- 2016-11-28 (月) 21:06:23
      • はい、そうです。自分の訂正が遅かったので、なんか変なことになってますがw -- 木主 2016-11-28 (月) 21:08:49
      • なるほど、スッキリ爽快! -- 2016-11-28 (月) 21:13:48
      • 二代目不来方城(豊胸) -- 2018-01-06 (土) 22:22:46
  • ん?じゃあ御城の盛岡城が言ってる昔の事って何なんだろう。不来方城が別の城なら、正義のヒーローを名乗ってたというのもおかしな話に。 -- 2016-11-28 (月) 21:09:37
    • 城址に残留する旧不来方城の思念が新不来方城に乗り移りry -- 2016-11-28 (月) 21:12:00
    • 一応連続性はあるので。ただ元の城を拡張したとかいうのとは事情が違う。 -- 2016-11-28 (月) 21:20:10
      • ゲームとしてはいいけど、史実とは異なるということか。 -- 2016-11-28 (月) 21:32:47
      • 正しく書くと城プロの不来方城は不来方古城かな。 -- 2016-11-29 (火) 10:33:01
      • 盛岡城になった方は不来方新城? -- 2016-11-29 (火) 11:45:34
      • 新城とは言わないよ。宇土新城なんて言わないでしょ? まあ盛岡城の旧称として不来方城が使われたのはわずかな期間だし、不来方古城とも普通言わないけど、区別して言うならそうかなと。 -- 2016-11-29 (火) 12:21:48
      • なるほど、オリジナルの名称なのね。でも城は同名のがたくさんあるから、そういう配慮はありがたいな、感謝! -- 2016-11-29 (火) 13:04:06
  • 九戸城から福岡城に改築してから三戸南部氏の居城になってるからそこも書いておいた方がいいのでは? -- 2016-11-30 (水) 01:00:19
    • 書いてみた、こんな感じでいいかな? -- 2016-11-30 (水) 01:05:45
      • ありがとうございます! -- 2016-11-30 (水) 02:14:02
  • 4月6日に発表された「続100名城」に選ばれたぞ。秀吉に喧嘩を売った政実の気概に思いを馳せられておすすめだ。 -- 2017-04-08 (土) 15:46:50
  • 地元ktkr -- 2018-01-06 (土) 22:17:42
  • くど?わふー? -- 2018-01-06 (土) 22:20:59
    • 「くのへ」なんだよなぁ…地元民以外で読める人見たことないからしゃあないけど -- 2018-06-27 (水) 11:45:33
      • このページ書いた編集者も読めてないっぽいよね -- 2018-06-27 (水) 11:54:10
    • 八戸は有名なのに -- 2018-06-27 (水) 21:08:37
  • 九戸城って名前なのに所在地は二戸なのか -- 2018-06-27 (水) 16:49:37
    • 雑な説明だけど今現在九戸と呼ばれている村は九戸氏に当時仕えていた武将の領地ないし居住地周辺の村々を糾合して出来た村なのよ。(ちなみに該当する地域は旧八戸藩組なので余計ややこしい)
      で、それが昭和30年頃の出来事なのでそれ以前から城の所在地だった福岡町は単独町制になっててその流れが今でも続いてるから九戸(氏の)城だけど所在は二戸市の福岡(福岡っていう地名は今でも残ってる)ってことになってる。
      尚余談だけど九戸神社は過去に山火事で焼失していて、当時収蔵されてた九戸氏にまつわる物品の大半も消失してるのでホントに詳しい部分ってのは残ってないんだ…。 -- 2019-10-14 (月) 06:29:58
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