丹波八木城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報八上城・黒井城とともに「丹波三大山城」に数えられる。 築城年代は定かではないが、1431年、丹波国守護代として入封した内藤氏が築いたと伝えられている。 1553年、内藤国貞が八上城主波多野氏と対立中に八木城を攻め落とされ討死をする。 その後、松永久秀の弟松永長頼により八木城が奪還され、長頼が内藤宗勝と名を改め八木城主となった。 丹波国守護代である内藤氏の居城で、波多野氏の八上城、荻野氏の黒井城とともに「丹波三大山城」に数えられる、丹波でも屈指の巨大山城。 築城年代は定かではないが、永享3年(1431年)丹波国守護代として入封した内藤氏が築いたと伝えられている。元々この城の周囲は丹波国の政治的拠点として機能し、八木城も守護所として用いられた。 天文22年(1553年)、三好長慶に与した内藤国貞が、対立していた波多野氏の八上城を松永久秀らとともに攻めたが、八木城を攻め落とされ討死する。 その後、久秀の弟松永長頼により八木城が奪還され、長頼は国貞の子である千勝の後見人となり、さらに内藤宗勝と名を改め事実上の丹波国守護代・八木城主となった。 しかし宗勝も永禄8年(1565年)に赤井直正(荻野直正)の黒井城を攻撃中に討死し、天正7年(1579年)には織田信長が派遣した明智光秀によって八上城は落城した。その後の八木城の詳細は不明だが、明智秀満が一時入城したとも伝えられ、また光秀が「八木城麓」に材木を集めるよう指示した文書もあり、光秀の支配下でも機能していたと考えられる。
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