丸森城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報丸森城(まるもりじょう)は宮城県伊具郡丸森町(陸奥国伊具郡)にあった城。 伊達家中での政策に対する対立を発端とし、東北南部の諸氏を巻き込み6年にわたり続いた天文の乱は最終的に将軍足利義輝の仲裁という形で和睦が成立、伊達家当主伊達稙宗は当主の座を嫡男晴宗に譲り隠居し、その際に隠居城として築かれたのが丸森城の始まりである。 伊達家中での政策に対する対立を発端とし、東北南部の諸氏を巻き込んで6年にわたり続いた天文の乱は、最終的に将軍足利義輝の仲裁という形で和睦にいたり、伊達家当主伊達稙宗は当主の地位を嫡男晴宗に譲り隠居することとなった。 稙宗には隠居領として伊達氏の領地のうち伊具郡および宇陀郡北部をあてがわれ、これに応じた隠居城として築かれたのが丸森城の始まりである。 続きをクリックで表示 元亀8(1565)年伊達稙宗が死去すると、稙宗の面倒を見ていたとされる屋形御前(稙宗長女)の嫁ぎ先であった相馬氏が隠居領に進駐し丸森城などを接収した。 当然、伊達氏はこれに反発、稙宗の隠居領を巡って20年以上にわたる伊達氏と相馬氏の激しい争いが続くこととなる。 丸森城は守りが堅く、長きにわたって伊達氏の攻勢を跳ね返したものの、晴宗の子輝宗の代の天正11(1585)年ついに伊達方は丸森城を攻略した。 その後伊達家臣黒木宗俊が城主となり、宗俊が駒ヶ嶺城(現在の福島県相馬郡新地町にあった城)に移った後は高野親兼、大條実頼と城主がかわるが、大條実頼は北西の阿武隈川南岸の丘陵に鳥谷館を築き移ったため、廃城となった。 元亀8(1565)年伊達稙宗が死去すると、隠居後の稙宗の面倒を見ていたとされる屋形御前(稙宗長女)の嫁ぎ先であった相馬氏が隠居領に進駐し丸森城などを接収した。 当然、伊達氏側はこれに反発、以降、稙宗の隠居領を巡って20年以上にわたる伊達氏と相馬氏の激しい争いが続くこととなる。 丸森城は守りが堅く、長きにわたって伊達氏の攻勢を跳ね返したものの、伊達晴宗の子輝宗の代の天正11(1583)年ついに伊達方は丸森城を攻略し、城主として黒木宗俊を置き相馬氏に備えさせた。 伊達政宗の代になり宇陀郡北部も伊達氏の手に戻ると、宗俊は駒ヶ嶺城に移り、高野親兼、大條実頼と城主が入れ替わっていった。 慶長6年(1601年)大條実頼は丸森城から北西にあたる阿武隈川南岸の丘陵に新たに鳥谷館を築きそこに移ったため、丸森城は廃城となった。 現在は城跡地に愛宕神社がおかれている他、伊達稙宗の墓碑も現存している。
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