不破関 のバックアップの現在との差分(No.3)
現実の城情報美濃国の関所で、伊勢国の鈴鹿関(すずかのせき)、越前国の愛発関(あらちのせき。9世紀初頭より近江国の逢坂関(おうさかのせき、あふさかのせき)に代わった)と並んで律令三関(以下、三関)と呼ばれ、広義にはこれより東を「関東」と称する。 続きをクリックで表示 三関が設置される前年、天武天皇元年(672年)の壬申の乱では美濃国の多品治によって「不破の道」が封鎖されている。 しかし、兼ねてより東軍に内通しており松尾山城を占拠した小早川秀秋が開戦直後に大谷隊を攻撃すると、西軍は瞬く間に壊滅した。 また不破関の土塁を利用して陣所を築いたのが宇喜多秀家で、不破関の北端の土塁と天満山から伸びた土塁が防衛線を形成していた。不破関の土塁は途中から二重構造になっており、合戦に備えて強化されていたことがわかる。 福島正則は不破関の土塁の外側に布陣し、土塁によって守られた秀家の陣を攻撃した。不破関の東端の土塁からは鉛の銃弾が発掘調査で見つかっており、激しい銃撃戦が展開されたと考えられていた。 いずれにせよ兼ねてより東軍に内通しており松尾山城を占拠した小早川秀秋が開戦直後に大谷隊を攻撃すると、西軍は瞬く間に壊滅した。 なお関ヶ原の戦いにおいて、三成が笹尾山に布陣したという説は近年には白峰旬氏が『新解釈 関ヶ原合戦の真実』にて疑義を呈し、高橋陽介氏『一次史料にみる関ヶ原の戦い』、乃至政彦氏『戦国の陣形』により否定されている。 現在、不破関跡には不破関資料館が建てられ、発掘調査により出土した土器や瓦、和同開珎などが展示されている。
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