上都は、元朝の冬の都である大都(現在の北京)に対し、夏の都として使われた城塞都市であり、欧米ではザナドゥの名前で広く知られる。 元は開平府というクビライの移動宮殿のための補給基地として建てられた街であったが、大都建造と共に元朝の夏の都となり、夏季の避暑と行政を行うための行宮となった。 上都は一辺2.2kmのほぼ正方形に近い形状をしており、北西から外宮、内宮、宮城の三つのエリアに区分けされ、宮城は紫禁城の40%程度のサイズとなっている。(Google Map) 街の城壁は版築で造られており、現在はそれが崩れて盛り土のようになって残っている。 また、外宮と内宮の各門には甕城という外枡形虎口と同様の防衛設備が取り付けられていた。 元末期になると紅巾の乱に巻き込まれて町は焼き払われ、元朝の夏の都としては滅びてしまった。 1369年に明に占拠されると開平府と名を改め、モンゴル方面への前線基地として永楽帝自身も入って指揮を執っていたが、1403年には放棄されてそのまま自然へと帰って行った。
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上都はマルコ・ポーロの東方見聞録により、ザナドゥとして欧米でも広く知られている。 東方見聞録によると、上都内には大理石製の宮殿とゲルの二つの宮殿があったという。 大理石の宮殿は様々な木や花と共に、人間や獣の絵や金装飾で彩られていたという。 ゲルの宮殿の方は各所が金箔で彩られ、柱の上部にはこれまた金箔で龍が装飾されていたという。 クビライは主にゲルの宮殿に住み、たまに大理石の宮殿へと赴いていたという。
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