三戸城 のバックアップの現在との差分(No.5)
現実の城情報高岡城の出陣時キャラクリック台詞で言及される城。 天文8年(1539年)に聖寿寺館が焼亡した後に南部晴政が築城した南部氏の主城の一つで、留ヶ崎城あるいは三戸高城とも呼ばれる。 永禄年間(1558~1570年)に築城が始められ、天正年間(1573~1592年)に完成したとされるが、本丸や谷丸から15世紀の遺物が出土しており、より古い時代から城があった可能性もある。 甲斐源氏の流れをくむ南部氏のうち、三戸を本拠とした一族は三戸南部氏と呼ばれ、当初南部氏の宗家は根城を本拠とする八戸南部氏だったが、戦国時代になって三戸南部氏が台頭し宗家の地位になったとされる。 特に三戸城を築いた南部晴政は「三日月の丸くなるまで南部領」とうたわれる、南部氏の全盛期を築いた。 続きをクリックで表示 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置によって三戸南部氏の宗家としての立場は確立し、奥州再仕置によって九戸政実の乱が鎮圧されてからは九戸城(福岡城)に居城が移された。 三戸町立歴史民俗資料館(温故館)の史料からは、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された比高90メートルの河岸段丘上にある連郭式山城であり、内部には主殿、御奥、千畳敷、大書院、御金蔵等の主要殿舎が建てられ、西側下には谷丸、北側下には淡路郭と呼ばれる腰郭が敷設されていた事がうかがえる。南西側には二の丸が置かれて南部氏一族の屋敷があり、さらに南西には重臣の北氏、桜庭氏、目時氏などの屋敷があった。
コメント |
Published by (C)DMMゲームズ
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示