南北朝時代、井伊道政が標高466.8メートル、比高430メートルの三岳山に築いたとされ、井伊谷城に対する詰めの城である。 三岳城は井伊城とも称されるが、井伊谷城も同様に井伊城と称されることがあり、史料読解を難解にしている。 道政は後醍醐天皇の皇子・宗良親王を擁して北朝方の高師泰・仁木義長らと戦ったが、暦応3年(1340年)には三岳城を攻め落とされ、大平城に逃れた。 永正11年(1514年)、曳馬城主・大河内貞綱が斯波義達と結託し今川氏親に謀反を起こすと、井伊直盛も呼応して三岳城に籠城したが、奥山城に逃れたのちに降伏した。 三岳城は山頂にある本丸は幾重にも土塁が廻らされ、東に少し下がった平地に二の丸を置き、三の丸はこの間を下った中腹の三岳神社がある場所に置かれた。
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