三ツ山城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報宮崎県小林市細野。 この城の北方と西方には断崖があり、その下方には辻之堂川が流れ、これが天然の堀となっていた。 また、丘陵地中央の最も高い場所に本丸が築かれ、間に空堀を挟んで東丸と南出丸という郭が造られた連郭式の城であった。 北東には伊東氏の小林城があり、そこもかつて三ツ山城と呼ばれていたが、この城とは無関係である。 続きをクリックで表示 この城の北方と西方には断崖があり、その下方には辻之堂川が流れ、これが天然の堀となっていた。 また、丘陵地中央の最も高い場所に本丸が築かれ、間に空堀を挟んで東丸と南出丸という郭が造られた連郭式の城であった。 北東には伊東氏の小林城があり、そこもかつて三ツ山城と呼ばれていたが、この城とは無関係である。 この城は、当初、真幸院司であった日下部氏の管理下に置かれていたが、肝付氏庶流の北原氏が真幸院司になると北原氏所有となり、そのまま居城を飯野城から三ツ山城へと移すこととなる。 永禄元年(1558年)に13代目当主・北原兼守が没すると、その後継人事に日向国の伊東義祐が介入し、その結果、義祐に領地共々城を奪われ、城主には義祐の意を汲む北原氏庶流の馬関田右衛門佐が置かれた。 天正4年(1576年)に高原城、小林城、須木城が島津氏に帰したため、三ツ山城も島津氏に帰することとなる。 そして、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となるまで存続した。
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