七戸城 のバックアップの現在との差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]

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甲斐源氏の流れをくむ南部氏のうち、七戸を拠点とした一族・七戸南部氏(七戸氏)の居城。
鎌倉時代、七戸の地には北条氏から地頭に任命された工藤氏がおり、鎌倉幕府の滅亡後は伊達氏・結城氏が支配していた。
建武2年(1335)には[[根城]]を本拠地とする八戸南部氏5代当主師行の弟・政長が入って七戸城を築城したと伝えられてきたが、現在は14世紀後半の八戸南部氏8代当主政光の築城とされる。
政光の死後はその子・政広が七戸城を継ぎ、以後七戸城は七戸南部氏の代々の居城となった。
当初南部氏は八戸南部氏が宗家の立場にあり、戦国時代に三戸南部氏が取って代わったが明確な主従関係は無く、七戸南部氏も一族として宗家を支えていた。

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七戸城は作田川と和田川が合流する地点の、比高約40メートルの丘陵先端部に築かれ、本丸、二の丸、北館、下館、宝泉館、西館、角館の7つの独立性の高い曲輪からなり、根城や[[九戸城]]といった南部氏系の城に共通した、同族連合といえる南部氏の状況を反映した構造となっている。
当初南部氏は八戸南部氏が宗家の立場にあり、戦国時代に三戸南部氏が取って代わったが明確な主従関係は無く、七戸南部氏も一族として宗家を支えていた。
しかし天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置により、南部氏は三戸南部氏を宗家として一族が家臣となるよう取り決められたが、これを不服とした九戸南部氏の政実が決起し、南部氏を二分する九戸政実の乱が始まった。
当時の七戸城主・七戸家国は政実に同調して三戸南部氏と戦い、秀吉が派遣した奥州再仕置軍に対して九戸城に籠城したが、降伏後に処刑された。
七戸城は廃城となったが、のちに[[盛岡藩>盛岡城]]の直轄地として代官所が置かれた。
しかし天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置により、南部氏は南部信直の三戸南部氏を宗家として一族が家臣となるよう取り決められたが、これを不服とした九戸南部氏の政実が決起し、南部氏を二分する九戸政実の乱が始まった。
当時の七戸城主・七戸家国は政実に同調して信直と戦い、信直方の津村伝右衛門の居城である伝法寺城を攻撃したが、これは失敗に終わった。
しかし南部氏のなかでも精強で知られる九戸党を率いる政実は戦いを優位に進め、政実方の勢力は増大し七戸周辺では家国に味方をする者が多かった。
政実を独力で押さえられなくなった信直は前田利家を通じて秀吉に救援を要請し、秀吉が派遣した奥州再仕置軍に対して家国は政実らとともに[[九戸城]]に籠城した。
この時七戸城にはわずかの守備兵がいたものの空城に等しく、再仕置軍の上杉景勝の攻撃を受け落城した。
九戸城は再仕置軍の攻撃に対し頑強に抵抗したが、政実は再仕置軍が持ちかけた和睦を受け入れて開城し、家国は政実らとともに降伏後に処刑された。
戦後、南部領内にあった48の城は12城だけが残され、残りの36城は廃城となった。廃城となった城のなかに七戸城もあったが、のちに[[盛岡藩>盛岡城]]の直轄地として代官所が置かれた。

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|所在地|青森県上北郡七戸町|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|平山城|

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**城郭構造 [#we3ae142]

七戸城は作田川と和田川が合流する地点の、比高約40メートルの丘陵先端部に築かれ、北館を中心に、主郭(本丸、二の丸)、下館、宝泉館、西館、角館、貝ノ口、北西外郭、西外郭という10の独立性の高い曲輪からなる。
主郭のある台地は中央に空堀が直線的に通され、直交またはややずらして空堀が入れられ、それぞれの曲輪は並列的で上下関係が分かりにくくなっておいる。これは根城や九戸城といった南部氏系の城に共通した、同族連合といえる南部氏の状況を反映した構造となっている。
縄張としては平野部に臨む複数の舌状台地の先端部を利用していることが特徴で、そのため平野部から見ると山城のように見える。また天然の大きな沢を利用し、その両側の法面を加工して空堀としていることも特徴として挙げられる。
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七戸城は城城が25ヘクタールを超える大規模な城で、南部氏系築城技術が随所に見られる城だが、これは七戸城が南部氏一族の居城のなかで最も北に位置しているからだと考えられる。
七戸城の北方には安東氏の家臣である蠣崎氏がおり、その安東氏は蝦夷地にいた。安東氏は南部氏によって十三湊を終われ蝦夷地に逃れたという経緯があり、安東氏や蠣崎氏が南部領に攻め寄せる際には七戸城が真っ先に攻撃されると想定され、そのために七戸城は大規模なものとなったとされる。
実際、蠣崎氏は康正2年(1456年)に七戸城を攻撃したという。
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昭和16年(1941年)に七戸城は国の史跡に指定され、平成3年(1991年)から平成15年(2003年)まで史跡整備のため北館の全面的な発掘調査が行われた。
この発掘調査の結果、北館は14世紀半ばから17世紀初頭まで利用されていたことが明らかとなり、御主殿、常御殿、奥御殿が築かれ城内では中心的な曲輪であることが判明した。
縄張的に見ても北館は重要な曲輪であり、防備を固める必要性から何らかの防御施設があったと考えられ、平成19年(2007年)には東門が建てられた。また復元整備は行われていないが、将来的には建物の復元も予定されている。

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