ヴィシェフラット城 のバックアップ(No.1)

プラハ城からヴルタヴァ(モルダウ)川を挟んだ対岸の、ボヘミア公国初代王女リブシェから始まるプシェミスル家発祥の地という伝説の丘にある城である。ヴィシェフラドとも。
始まりは1070年、ボヘミア王ヴラチスラフ2世が弟や司教との権力闘争の対抗策のためプラハ城から移り居城とした。
内憂外患に苦しみながらも、現存する聖マルティン聖堂や聖ペテロ・パウロ教会を建造し、プラハに匹敵するほどの街並みを作り上げ大いに賑わった。
だが、孫のヴラジスラフ2世がボヘミア公になるとプラハへ居城を戻したため地位は低下するも、教会や残った市民の努力で独自の地位を維持し続け、
ルクセンブルク家のヨハンがボヘミア王につく際には大きな後ろ盾となった。
1346年、ボヘミア王かつ神聖ローマ皇帝になった息子のカール4世は、母がプシェミスル家出身だったこともありヴィシェフラットとプラハを尊重し、
1348年からプラハ市街を拡張し市壁をヴィシェフラットまで繋げ、城も拡張し新たに城塔も作り教会の修復も行った。
また、チェコの始まりをヴィシェフラットとし、戴冠式の前日の儀式をヴィシェフラットで行うようにした。




所在地チェコ、プラハ市、ヴィシェフラット
現存状態門、城壁
城郭構造平山城

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最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示

  • プラハ窓外投擲事件の舞台ってここだったのか -- 2018-09-29 (土) 18:29:00
  • 気合い入っとるなー。最高です。参考も載せてますし、よく掻き集めてまとめましたね。 -- 2018-09-29 (土) 20:21:11
  • 参考文献とな。これ載せるのって任意でいいんですよね・・・? -- 2018-09-29 (土) 21:28:02
  • 『乙女戦争』の読者が書いたんだろうけどいろいろ間違ってる。巻末の解説よく読め。
    ・フス戦争の開始は1419年で、プラハ窓外放り投げ事件→ボヘミア王ヴァーツラフ4世死去→ジギスムントがボヘミア王に即位、の順。(ヴィシェフラトの戦いは1420年11月)
    ・ヴィシェフラト城を攻撃したのはヤン・ジシュカではなくフス派の貴族リヒテンブルクのヒネク・クルシナ。
    ・農民が騎士に勝ったのはこれが最初というわけではない。
    ・フス派との和解はジギスムント存命中に成立。 --  ? 2019-07-08 (月) 03:53:34
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