1291年のアッコン陥落により聖ヨハネ騎士団は聖地を追われ、1309年に東ローマ帝国からロードスを奪って本拠地とした。 聖ヨハネ騎士団は東ローマ帝国が使っていた城塞を修築し、コンスタンティノープルの外城壁と同様の城壁も増築した。 ロードスは対イスラームの拠点、特に1453年にコンスタンティノープルが陥落して以降は対オスマン帝国の最前線となる。 1440・1442・1444年のマムルーク朝による攻撃は騎士団長ラスティックが撃退し、1455年のオスマン帝国による攻撃も騎士団長ジャン・ド・ミイーが撃退した。 オスマン帝国は1480年にロードスに対する本格的な攻撃に乗り出したが、聖ヨハネ騎士団は団長ピエール・ドービュソン指揮の下でよく防戦し、オスマン帝国軍の最新式の攻城兵器に対し中世の城塞によって撃退することに成功した。
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この攻囲戦の後ロードスの城塞は近代化が施され、ルネサンスの築城技術を導入した強固な城壁が増築され、側射や縦射を行うための稜堡の初期形態が登場した。 そして1522年、ロードスはオスマン帝国の最盛期を築くことになるスレイマン1世率いる大軍の攻撃を受ける。 聖ヨハネ騎士団は団長ヴィリエ・ド・リラダンを中心に防戦し、近代化された城壁に対しオスマン帝国軍は大きな損害を与えられず、逆に城塞からの反撃を受け多くの兵を失っていった。 しかしコンスタンティノープルの陥落時と同じく、ロードスも兵員不足から城塞の全てを守ることができず、城壁を突破されると抵抗する術を失い、ついにオスマン帝国に降伏することとなった。
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