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コンスタンティノープル
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現実の城情報「第2のローマ」「新しいローマ」として地中海世界の中心地であるとともに、キリスト教正教会の総本山であり、東西文明の十字路でもある、キリスト教世界最大の都市として繁栄した、千年以上に渡ってローマ帝国の中心となった帝都。 続きをクリックで表示 413年にはゲルマン人やフン人の侵入に備えるため、テオドシウス2世はコンスタンティヌスの市壁から防衛線を西に伸ばした、高さ13メートルの「テオドシウスの城壁」を築いた。 コンスタンティノープルは地中海帝国を一時的に復活させたユスティニアヌス1世の治世で最初の繁栄期を迎え、世界最大級の都市へと発展した。 しかし1025年のバシレイオス2世の死後帝国は衰退し、コムネノス朝時代に海洋交易国家であるヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国と結んで再び繁栄したが、1204年の第4回十字軍の際に内紛によって一時的に攻略された。
三重城壁(クリックで表示) 三重城壁コンスタンティノープルの防備を特徴づけるものとして強力な三重城壁が挙げられるが、当初コンスタンティノープルの範囲はコンスタンティヌス1世が築いた城壁内にとどまっていた。 こうして外敵からの攻撃に備えたコンスタンティノープルだったが、447年、アッティラがコンスタンティノープルへ進軍する姿勢を見せている最中に大地震が起こった。城壁は崩落し、城壁に配置されていた城塔もその半分以上である57棟が崩壊し、コンスタンティノープルはアッティラの接近を前に危機感に包まれた。 従来の大城壁が内城壁と呼ばれたのに対し、その外側に築かれた城壁は外城壁と呼ばれ、厚さ約2メートル、高さ約7.5メートルで、高さ約10メートルの城塔がほぼ100メートルごとに置かれた。 この三重城壁の他にもマルマラ海と金角湾に沿った海岸にも一重の城壁が設けられた。金角湾方面の皇帝の宮殿が置かれていた地区はブラケルナイ地区と呼ばれ、三重城壁との接合点、宮殿を囲む部分はコンスタンティノープルの城壁のなかでも弱点と見なされた。またブラケルナイ地区に隣接するメソテイキオン地区も弱点とされ、オスマン帝国によるコンスタンティノープル包囲の際にはこれらの部分が集中的に狙われることとなる。 このようにコンスタンティノープルはテオドシウスが築いた巨大な三重城壁と海岸城壁、そして金角湾とマルマラ海によって強力に防御され、その後千年以上続くことになる城塞都市コンスタンティノープルが完成したのである。 コンスタンティノープルの陥落(クリックで表示) コンスタンティノープルの陥落東西文明の十字路として地中海世界の中心に君臨したコンスタンティノープルは、その歴史のなかで度々外敵の攻撃を受けたが、テオドシウスの城壁をはじめとする強力な城壁がその攻撃を阻んできた。 1204年には宮廷の内紛から第4回十字軍の侵入を許し、この時にテオドシウスの城壁と比べると高さも強度も劣る、金角湾沿いの一重城壁が弱いことが判明した。 1453年4月5日にオスマン帝国スルタンの「征服者」メフメト2世はバヤジットやムラトによる包囲の失敗を踏まえ、本格的なコンスタンティノープル攻略に着手した。 ところが5月29日、集中攻撃により破損していたブラケルナイ地区の城壁に設けられた柵への攻撃の最中、これに対応していたジェノヴァ人指揮官ジュスティニアーニの負傷がコンスタンティノープルにとって致命傷となった。 コメント |
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