ルネサンス期の代表的な傭兵隊長、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの居城。 マルケ州とエミリア・ロマーニャ州の境界付近に位置するサン・レオの岩山上に築かれた城で、その起源は古代ローマの城砦に遡る。 中世には東ローマ帝国、東ゴート王国、フランク王国、ランゴバルド王国などによる争いの舞台になり、961年にはイタリア王ベレンガーリオ2世が神聖ローマ皇帝オットー1世のイタリア侵攻に際しサン・レオ城に籠城したが、963年に落城しベレンガーリオは追放された。 12世紀頃、モンテフェルトロ家がウルビーノ近郊の山岳地帯であるモンテフェルトロの伯となり、1234年にはウルビーノのシニョーレとなって、1443年にはローマ教皇からウルビーノ公位を得てウルビーノ公国が成立した。 このウルビーノ公で最も著名な人物が傭兵隊長としても活躍したフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロで、当時のヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、教皇領、ナポリ王国という五大国が覇権を争う軍事的緊張下にあってサン・レオ城の大改修に着手した。
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この大改修を手がけたのが、フェデリーコに仕えた建築家で、ウルビーノのサッソコルヴァーロ城の設計も行ったフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニだった。 マルティーニによって、サン・レオ城は城内に火砲を搭載し敵の火器にも対抗できるようなルネサンス式の要塞へと変貌した。 ウルビーノ公国はフェデリーコとその子グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの時代を通じて教皇に従っていたが、1502年に教皇アレクサンデル6世の子チェーザレ・ボルジアに突如ウルビーノを攻撃してサン・レオ城を占領し、グイドバルドはウルビーノから逃れた。 グイドバルドは一時反撃に転じウルビーノに復帰したものの再びウルビーノから追われ、アレクサンデル6世死去とチェーザレの失脚によりウルビーノに戻ることができた。 グイドバルドは子が産まれないまま急死し、その養子となっていたフランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ1世がウルビーノ公となり、ウルビーノ公国はデッラ・ローヴェレ家が支配することとなった。 1631年のフランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ2世の死でデッラ・ローヴェレ家の男系が断絶するとウルビーノ公国は教皇領に編入され、サン・レオ城は監獄として使用された。18世紀末には詐欺師アレッサンドロ・ディ・カリオストロがサン・レオ城で獄死している。 このカリオストロの活動をもとに『カリオストロ伯爵夫人』が書かれ、また『ルパン三世 カリオストロの城』に登場する城はサン・レオ城がモデルとされる。 2010年には「フランチェスコ城」としてヨーロッパ100名城に選定され、2012年には「死ぬまでに行きたい、世界の名城25選」に「サンレオ」として6位で選出された。
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