コンスタンティノープル のバックアップ(No.8)
現実の城情報「第2のローマ」「新しいローマ」として地中海世界の中心地であるとともに、キリスト教正教会の総本山であり、東西文明の十字路でもある、キリスト教世界最大の都市として繁栄した、千年以上に渡ってローマ帝国の中心となった帝都。 続きをクリックで表示 413年にはゲルマン人やフン人の侵入に備えるため、テオドシウス2世はコンスタンティヌスの市壁から防衛線を西に伸ばした、高さ13メートルの「テオドシウスの城壁」を築き、447年の地震で大部分が崩壊するとテオドシウスは再建に全力を注ぎ、これを修復するだけでなく大城壁の外側に外城壁を築いて堀を設け、巨大な三重城壁が完成した。 コンスタンティノープルは地中海帝国を一時的に復活させたユスティニアヌス1世の治世で最初の繁栄期を迎え、世界最大級の都市へと発展した。 しかし1025年のバシレイオス2世の死後帝国は衰退し、コムネノス朝時代に海洋交易国家であるヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国と結んで再び繁栄したが、1204年の第4回十字軍の際に内紛によって一時的に攻略された。
コンスタンティノープルの陥落(クリックで表示) コンスタンティノープルの陥落東西文明の十字路として地中海世界の中心に君臨したコンスタンティノープルは、その歴史のなかで度々外敵の攻撃を受けたが、テオドシウスの城壁をはじめとする強力な城壁がその攻撃を阻んできた。 1204年には宮廷の内紛から第4回十字軍の侵入を許し、この時にテオドシウスの城壁と比べると高さも強度も劣る、金角湾沿いの一重城壁が弱いことが判明した。 1453年4月5日にオスマン帝国スルタンの「征服者」メフメト2世はバヤジットやムラトによる包囲の失敗を踏まえ、本格的なコンスタンティノープル攻略に着手した。 ところが5月29日、集中攻撃により破損していたブラケルナイ地区の城壁に設けられた柵への攻撃の最中、これに対応していたジェノヴァ人指揮官ジュスティニアーニの負傷がコンスタンティノープルにとって致命傷となった。 コメント |
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