コンスタンティノープル のバックアップ差分(No.6)

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*現実の城情報 [#information]

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330年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が現在のイスタンブールの地に建設した、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の都。
「第2のローマ」として地中海世界の中心地であるとともに、キリスト教正教会の総本山であり、東西文明の十字路でもある、キリスト教世界最大の都市として繁栄した。
413年にはテオドシウス2世がコンスタンティヌスの市壁から防衛線を西に伸ばした、高さ13メートル、三重城壁の「テオドシウスの城壁」を築き、半島は金角湾とマルマラ海沿いの海岸城壁、テオドシウスの城壁によって完全に防御された。
「第2のローマ」「新しいローマ」として地中海世界の中心地であるとともに、キリスト教正教会の総本山であり、東西文明の十字路でもある、キリスト教世界最大の都市として繁栄した、千年以上に渡ってローマ帝国の中心となった帝都。
330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が現在のイスタンブールの地に、自身の名を冠して「コンスタンティヌスの町」を意味する都を建設した。
以降の皇帝はコンスタンティノープルに住まない者も多かったがテオドシウス1世はコンスタンティノープルに定住し、彼の治世を最後にローマ帝国は最終的に東西に分裂し、今日「東ローマ帝国」と称される帝国の都として歴代皇帝が居住した。

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コンスタンティノープルは559年にスラヴ人に攻撃されたが将軍ベリサリウスが撃退、アラブ人による673~678年の五年間の包囲、717~718年の包囲も強力な城壁とギリシア火で撃退し、バルカン半島は数世紀に渡ってイスラーム勢力から守られた。
以後もコンスタンティノープルは文明の中心地として繁栄し、城壁も攻城戦技術の発展に対応して改修が繰り返された。
413年にはゲルマン人やフン人の侵入に備えるため、テオドシウス2世はコンスタンティヌスの市壁から防衛線を西に伸ばした、高さ13メートルの「テオドシウスの城壁」を築き、447年の地震で大部分が崩壊するとテオドシウスは再建に全力を注ぎ、これを修復するだけでなく大城壁の外側に外城壁を築いて堀を設け、巨大な三重城壁が完成した。
これによって半島は金角湾とマルマラ海沿いの海岸城壁、テオドシウスの城壁によって完全に防御され、オスマン帝国に破られるまでの実に千年以上に渡り正攻法で破られることはなく、文字通り鉄壁として外敵の前に立ちはだかった。
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しかし1204年の第4回十字軍の際に内紛によって一時的に攻略され、この時に金角湾沿いの一重城壁が弱いことが判明した。
コンスタンティノープルは地中海帝国を一時的に復活させたユスティニアヌス1世の治世で最初の繁栄期を迎え、世界最大級の都市へと発展した。
559年にはスラヴ人に攻撃されたが、これはユスティニアヌス麾下の将軍ベリサリウスが撃退した。
ヘラクレイオス1世の治世ではササン朝ペルシアとの抗争で疲弊し、ペルシア遠征中の626年にはアヴァール人がコンスタンティノープルを包囲したが、これは留守を預かっていた総主教セルギオスが撃退した。
しかしヘラクレイオスはササン朝を破ったものの、新たに勃興したイスラームにヤルムーク河畔の戦いで大敗し、シリア・エジプトを奪われ失意のうちに死去した。
イスラームはコンスタンティノープルにも迫り、673~678年に五年間に渡って断続的に包囲し、717~718年にも包囲するが、コンスタンティノープルは強力な城壁とギリシア火で撃退し、バルカン半島は以後数世紀に渡ってイスラームから守られた。
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コンスタンティノープルは867年のバシレイオス1世に始まるマケドニア朝のもとで最大の繁栄を迎えた。
特にニケフォロス2世・ヨハネス1世・バシレイオス2世はイスラームやロシア、ブルガリアを圧倒して地中海世界に君臨し、東ローマ帝国の最盛期を現出した。
コンスタンティノープルは地中海世界の政治・経済・文化・宗教の中心地となり、当時の西ヨーロッパの都市の10倍以上となる数十万の人口を有する巨大として繁栄、城壁も攻城戦技術の発展に対応して改修が繰り返された。
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しかし1025年のバシレイオス2世の死後帝国は衰退し、コムネノス朝時代に海洋交易国家であるヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国と結んで再び繁栄したが、1204年の第4回十字軍の際に内紛によって一時的に攻略された。
この時にテオドシウスの城壁と比べると高さも強度も劣る、金角湾沿いの一重城壁が弱いことが判明した。
さらに14世紀からはオスマン帝国の脅威にさらされ、1422年の攻撃は撃退したが、1453年4月5日にオスマン帝国スルタンのメフメト2世は本格的なコンスタンティノープル攻略に着手した。
メフメト2世はボスポラス海峡のヨーロッパ側に築いた[[ルメリ・ヒサル]]を攻撃拠点とし、「ウルバンの巨砲」などの大砲を用いて約二ヶ月間の攻城戦を行ったが、火砲に対抗できるよう改良された三重城壁を破ることはできず、総攻撃はいずれも撃退された。
メフメト2世はボスポラス海峡のヨーロッパ側に築いた[[ルメリ・ヒサル]]を攻撃拠点とし、「ウルバンの巨砲」などの大砲で砲撃を加え、坑道を掘ることによる地下からの攻撃も試み、オスマン帝国艦隊の山越えなどの奇策も用いて約二ヶ月間の攻城戦を行ったが、火砲に対抗できるよう改良された三重城壁を破ることはできず、総攻撃はいずれも撃退された。
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ところが5月29日、守備兵が外城壁の城門の施錠を忘れたことによってオスマン帝国兵に城内に侵入され、さらにジェノヴァ人指揮官ジュスティニアーニが負傷したことで守備兵は混乱し潰走していった。
コンスタンティノープルの内城壁は兵員不足からほとんど防御されていなかったため、外城壁を突破したオスマン帝国兵の攻撃に対応できず、ついに東ローマ帝国千年の都として難攻不落を誇ったコンスタンティノープルは陥落した。
コンスタンティノープルの陥落と東ローマ帝国の滅亡は西欧社会に多大な影響を与えるとともに、築城技術の変革も促した。
中世に普及した高い城壁を備える城塞では新しい攻囲戦術や軍事技術に対抗できないことが明らかとなり、[[星型要塞>四稜郭]]がさらに発展していくこととなる。

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|所在地|トルコ共和国・イスタンブール|
|現存状態|世界文化遺産・イスタンブール歴史地域|
|城郭構造|城郭都市|
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